(いつまでもはなのうしろにあるひかな)
大峯あきら氏が第八句集『群生海(ぐんじょうかい)』で第五十二回毎日芸術賞と第二十六回詩歌文学館賞を受賞された平成二十三年の「晨(しん)」五月号の「光芒七句」欄に私は「花の日」という一文を書いた。それは「花の日も西に廻りしかと思ふ」という句に始まる七句でその中には平成二十二年の「晨」一月号の「光芒七句」で取り上げた「虫の夜の星空に浮く地球かな」や「日輪の燃ゆる音ある蕨かな」も含められている。
今回も大峯あきら氏が第九句集『短夜』で俳壇最高の賞とされる第四十九回蛇笏賞に併せて小野市詩歌文学賞を得られたことに因み「「花の日」再び」と題してその続きを書かせて頂くこととする。
あきら氏は花の吉野に程近い大淀町増口で生まれ育って来られた訳であるから「花」も「花の日」も平生見慣れた存在であることは申すまでもあるまい。ただそういう自然環境に加えて専立寺という浄土真宗の寺の住職を継がれ、また大学で宗教哲学を考究される一方、俳句創作に関わる詩的体験を重ねられて、「花」や「花の日」を単なる季節の景観に止どめず、宇宙の根源に関わる命の現れとして深い考察の対象とされて来られたのである。
掲出句は一見何の変哲もない花の景色に見えるかも知れないが、その真意は甚だ深いところに根差すものであることを知れば、この句の真価が判ろうというものである。「花」は春という季節を代表するものであり、我々人間と同様の命を持つものである。それは季節の移ろいとともに咲き散るものであり、その一瞬の現れは循環する永遠の時間と交叉している。
「いつまでも花のうしろにある日」とはそういう深奥な世界を象徴する言葉として捉えることが出来る。それは北九州市若松の浄土真宗本願寺派極楽寺の山門の傍に建てられたあきら氏の唯一の句碑に刻まれている第三句集『月読』の
花咲けば命一つということを
(はなさけばいのちひとつということを)
という句の内実と通い合うものがあるであろう。
思えば昔、「青」の創刊号に書かれた「季に関する一考察」以来、あきら氏の季に対する考察は一貫して深化し続けて来たように思われる。そしてそれを可能にしたものが実に俳句に依る詩的体験であったと云って過言ではあるまい。そして今も一句の創作、一句の鑑賞を経て論作ともに年々深化されつつあるように思われる。
「晨」創刊三十周年の記念講演の表題も「季節とことば」であったが、季を主題とする俳句は特にことばに命を削る詩の中の詩とでも言って良いように思う。句集『短夜』から数句を抽いてその例証を試みてみよう。
大木の静かになりてしぐれけり
(たいぼくのしずかになりてしぐれけり)
しぐれはひそかにしめやかにそして忍びがちに近づいて来るものである。大木はその気配をいち早く悟って静かに身を正しその時を待つ。そしてしぐれに濡れしぐれの風情をたのしむのである。
初日出てすこし止りて上るなり
(はつひでてすこしとまりてあがるなり)
初日は一気に大空へ駆け上るということはしない。それは万象に光を与えるという大事を前に一呼吸入れ万全の体勢を整えてから上り始める。その一瞬を「すこし止りて」と言い止めたのである。
鴉の子中仙道を歩きをり
(からすのこなかせんどうをあるきおり)
鴉の子が中仙道を歩いているというただそれだけのことが詠われている。しかし、この句には不思議な実感がある。それは「鴉の子」と「中仙道」ということばの持つ雰囲気がぴったり合致し合っているという点である。「東海道」や「山陽道」では、こうはいくまい。木曽であれ信濃であれ中仙道であれぱどこであっても「鴉の子」はいきいきと調和する。
藪入は古き峠を越えてゆく
(やぶいりわふるきとうげをこえてゆく)
藪入りとは古い季題である。奉公人をサラリーマンと考えれば現代にも通用するかもしれないが、他家へ嫁いだ子女の里帰りにも使われるようなのでことばとしてはまだ生きているのかも知れない。帰郷する者の心情が「古き峠を越える」に表わされている。この「藪入りは」という表現法はかっての「探梅は岩躍り越す水見たり」を想起させる。
昼ごろに一人通りし深雪かな
(ひるごろにひとりとおりしみゆきかな)
深い雪の積もった山国であろうか。午前中誰も通るものが無かったが、昼ごろになってやっと人が一人通って行ったという淋しい山村の風景である。私も、ここ北軽井沢へ妻と二人越して来て小さなバンガローに住んで百二十年ぶりの大雪を体験したが、軽井沢病院で脊柱管狭窄症の手術をしたこの冬はまさしくこのような日々であった。
短夜の雨音にとり巻かれたる
(みじかよのあまおとにとりまかれたる)
あきら氏には雨の句が意外と多い。国内、国外を問わず、氏の意識の中で雨もまた季節の循環と関りが深いものなのかも知れない。句集『短夜』の巻末に示された「短夜の雨音」に人々は寓意を期待するかも知れないがあきら氏にそういうものを求めても無理である。この「短夜の雨音」に示されているものは「命一つ」の顕示をひたすら享受するもの即ち詩人の「あるべき」かつ「ありのまま」の姿以外の何物でもない。
第七回小野市詩歌文学賞の受賞挨拶の中で端的に述べられている「私の俳句は社会性俳句とか人間探求俳句即ち現代俳句では無く芭蕉の詩的視点に立つ宇宙性俳句なのです」ということばの意味を今一度考えてみることである。
中杉髏「
(「晨」平成二十八年一月号より)
(「晨」平成二十八年一月号より)
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