2016年12月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(六月號より)

悴みて己のことのほか知らぬ        神戸商大 中杉髏「(なかすぎたかよ)
(かじかみておのれのことのほかしらぬ)

悴みて人を懀める目ぞしたる
(かじかみてひとをにくめるめぞしたる)

去り行くか枯木に凭れゐし男
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


第一句目は手足がこごえて、自由を失ふほどの嚴しい寒さの中でのある男のプロフィルである。例へば夜汽車を待つ寒い驛頭ででも。その男はいかにも利己的な、貪欲さうな顔をしてゐたのである。悴んでゐるために一層自己だけに執著して他人の心などを考へる餘地がないやうに見えたのである。此の句は又自畫像と解せないこともない。悴んで、自己以外のものへの配慮が失はれて、自己丈に執著してゐる内心を投げ出してゐると、とれぬこともない。しかし私はやはり此の句は、行きずりのさうした男への作者の直感と解して面白い句のやうに思はれる。
次の句になると前句より一層ある男のプロフィルとして鑑賞出來る。その男は作者の投げた視線に對して懀しみのこもつた目をしたのである。
第三句目は公園のやうな所と考へてよいであらう。ベンチに腰かけてゐる作者の目に以前から枯木に凭れている一人の男が映つてゐるのである。その男――外套のポケットに手をつゝ込んでゐる――のことが一度目に止つてからは、意識を去らないのである。その中年の男はいかなる男かと推察して見るといろいろと考へは進められるのであるが、それだけに氣にかゝるのである。その男が急に動きが見えたのである。ゆつくりと歩き出したのである。あの男も立ち去るのか。作者はさう感じたのである。その感じなのである。
以上三句いづれもさうした感覺的な若い作者の心理なのである。それを對象の人物の姿として描ききらうとしてゐる。そこに新しい心理寫があるように思ふ。(けん二)

悴みてといふ現實の事柄と、その季題を通してうけとられる感じとが交つて作者の心持のこちらに傅つて來る時に、はじめて一句の持つ味が興味あるものとなる。殊に悴みてと云ふ季題はその事柄以上に作者の感じを表はすところがある。悴みつゝなほ孜々と働く姿を第一句に見、悴みつゝ人を見る目の嚴しく抵抗してゐる様子を第二句に見る。併し、兩句共に自己意識の強い人の姿と見ることも出來るかも知れない。
第三句は、いつ迄も枯木に凭れてゐた男が誰かを待つてゐる様子であつたが、時を經たのでそこを立ち去る氣配に見えたといふのである。時間的の經過が面白く窺はれる。(年尾)



中杉髏「
(「ホトトギス」昭和三十二年七月号)


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2016年11月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(三月號より)

ひややかな人の横顔ばかりなる       中杉髏「(なかすぎ たかよ)
(ひややかなひとのよこがおばかりなる)


そんな角度から人を見てゐる。電車の中などで。そんなことが偶然あるものかもしれない。ひやゝかな顔をした奴ばかりが居たといふのである。漫畫家のやうにドライに見てゐる。この句を讀みくだすとまづそんな感じが頭に入ってくるのである。然し實際にはこれは、そんな心の角度から見てゐるのであらう。何か思ひ屈した場合に第三者わけてもその横顔などといふものは至つて冷かに見える。さう解する方が當り前の句解になり句がウエツトになつてくる。然しさうはわかつても再び當初のドライな一寸奇妙な感覺的なきびしい感じが蘇つてくるところがあつて、どうもそれがこの句の魅力となるやうである。ごくごく若い作者の年齢を私が知つてゐるからかもしれない。(杞陽)

何かの集りの座であらうか。知る人の居らぬ場所と見てよいであらう。どの人もたゞ冷かに黙してゐる。自分を見てゐる人も居らぬ。自分の目に映つてゐるその場の人は、夫々横顔を自分に見せてゐる。若者が大人の席に混り入つてゐる時などもさういつた場合に出食はすことがある。人に馴れぬ若人の心持が見える。(年尾)

(「ホトトギス」昭和三十二年四月号)

中杉髏「


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2016年10月15日

私のホトトギス 〜神田 敏子〜

-表現力- 神田敏子

先日イングリット・バーグマンの「追想」と云ふ映画をみましたが、舞台劇の良さをよく映画的に生かしてゐるシナリオ構成の見事さはさて置いてバーグマンの演技力にはほとほと感心させられました。
あゝ云ふ人の演技力になると次はどの様な動きでどの様な表情をすると云ふプロセスがはつきり観客に分かつてゐてその様な意識を越えたもう一つ高い所で観客を感動させずには置かない強靭な芸の力とでも云ふものを身に付けてゐる事が感じられます。何か云ふと矢張りそれはバーグマン自身にある俳優としての表現力の完璧さにあるのではないかと思はれるのです。私は落語が好きなんですが、同じ外題を円遊や文楽がやるのとそこらの新人がやるのとでは同じ事を云ひ同じゼスチユアをしながら全然違ふものを演じている様にすら思はれる事と同じであつて芸能の分野に於ける表現力が如何に大切なものか決定的な要素と迄云つていゝと考へられるのですがこれは単に芸能の世界だけではなく、文芸の分野でも矢張り同じ事が云へるのではないかと思はれます。例へば

乗鞍は凡そ七嶽霧月夜           たかし
(のりくらはおよそななだけきりづきよ)


この句はたかし氏が乗鞍へ吟行された時の一聯の作の一つですが、吾々俳句を嗜む者として同じ様なシチュエーションに置かれた場合大景的な捕握として誰だつてこゝを狙ふに違ひない最も普遍的であると云っていゝ主題であります。そこに表現のポイントがあります。かく狙ひかく表現されると云ふ事が分つてゐて猶このイメージの定着の確かさムーヴマンの鮮烈さが何処からくるのかそこに表現力があると云ふ今更の様に誰でも分つている文芸のイロハを申上げたのはその分り切つてゐる事実を俳人として意識してゐるか無意識でゐるかと云ふ修業の道程に於ける私自身の自覚の意味を改めて認識し直してみるために申上げているからに外なりません。
新奇な素材を狙ふ事より先づこの表現力の練磨でせう。即ちデッサン力を培ふ事が句の反撥力の最大の原動力であり、たとへば今の句で「凡そ」と云ふたゞそれだけの言葉の働きに依つて月明の中に黒々と朧にそびえ立つている山々が如何に躍動美をリアルに吾々の脳裡に伝え得てゐるか、つまり霧月夜と云ふ季語に対する有機的な働き、単なる修辞としてなら字引を引いても仲々に見当らない様な奇矯な言葉や空疎な難解熟語を駆使してリエゾン・デートルを誇示してゐる様な俳句が如何にそこらに多いことか何が偽物で何が真物かそれだけ分ればいゝ―こゝまで書いて来た時ホトトギス六月号がきました。中杉髏「さんの巻頭

去り行くか枯木に凭れゐし男        髏「(たかよ)
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


本当に好い句です。青春の寂寥感と云ふかオーヘンリーの短篇を読む様なフエータルな雰囲気を漂はせてをります。この句こそまぎれもない真物です。


(「青」昭和三十二年六月号より)


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