2017年12月01日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成十一年一月號より)

火の朱鳥石の茅舎や蝉時雨         中杉髏「(なかすぎたかよ)
(ひのあすかいしのぼうしゃやせみしぐれ)
 

火の朱鳥とは火の如く燃えた句と云う意味で、野見山朱鳥の事を云う。又石の茅舎とは石の如く黙したと云う点で川端茅舎の事を指す。いずれも虚子晩年の俊秀を指すのである。
これをやと云う切字を以て二つに分け同時に詠って居る。
同時に詠うところに同時に推称する思いがこめられて居る。
二人の句を蝉時雨を以て同時にじっと思うところに諷詠の誠が現れて居る。(柏翠)

ホトトギスの一時代を経てきた作家として野見山朱鳥があり、川端茅舎がある。その作品と人物を表すのに火の朱鳥と言い石の茅舎であると作者は言う。作者自身も若き日にホトトギスの巻頭を何度か取って活躍した歴史がある。蝉時雨が語る茫々の軌跡。(汀子)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成十一年二月号)


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2017年11月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成十年四月號より)

日光と月光おはす秋の闇          中杉髏「(なかすぎたかよ)
(にっこうとがっこうおわすあきのやみ)


奈良三月堂内陣には、多くのすぐれた天平の仏たちを見ることができる。日光菩薩、不空羂索観音、月光菩薩など。日光および月光は本尊の観音の両脇に侍している。和辻哲郎は「美しいのはただ本尊のみではない。周囲の諸像も皆それぞれに美しい。脇立ちの梵天帝釈の小さい塑像(日光、月光ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。」(『古寺巡礼』)といっている。ただし、残念ながら私は本物を見たことがない。ただ写真で見るだけであるが、それでも美しさは十分察することができる。入江泰吉は日光、月光両菩薩の美しさのうち、特に手について、「どちらの合掌された二つの手も、血のかよういきいきとした表情をもっていて、諸仏の合掌中の最高のものだと思う。」(『大和路』)といっている。これらの仏たちが闇のなかに、静まりかえっておわす様子はどんなものだろうか。一緒にいる作者はどんな気がするのだろうか。ゾクゾクするような緊張感と陶酔感があるのだろうか。
そしてこの闇は秋の闇でなければならない。乾燥した空気のなかの、静かな、しみじみした秋の闇でなければならぬと思う。(暮潮)

薬師如来の両脇に侍る日光菩薩と月光菩薩の薬師三尊を拝み敬虔な心持で寺を辞す作者である。いま拝んだ本堂には日光菩薩も月光菩薩も在すことでまだ印象が消えないまま振り返るとそこには秋の澄んだ闇が堂を包んでいるのである。心の推移が描けている。(汀子)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成十年五月号)


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2017年11月01日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成八年一月號より)

表札も故人のままや露の家         中杉髏「(なかすぎたかよ)
(ひょうさつもこじんのままやつゆのいえ)


亡くなった家の門にいつ迄もその人の名の表札を外さずに掲げてあるところをよく見かけるものである。主は居られないのにその家の門に立って故人の名がかけてあると、何かまだ中に居られるような気がして生前のなつかしさがこみ上げて来て、しばらく本当に亡くなったのかという戸惑いさえ覚えるものである。現実にひき戻された時のいいしれぬ虚しさは言葉に言い尽くせない。露の世の露の家であると述懐されている作者の姿が見える句で、露の季語のひびきが美しくも哀れである。(芳子)

主が亡くなったその家を久しく訪ねることもなかった作者である。この度久し振りに訪ねた家には主の名前が表札に掛けられたままになっている。それを見てふと懐かしく思い、もうその主はいないのだと淋しくなっていく心の推移を露という季題が代弁している。(汀子)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成八年二月号)


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