2016年10月15日

私のホトトギス 〜神田 敏子〜

-表現力- 神田敏子

先日イングリット・バーグマンの「追想」と云ふ映画をみましたが、舞台劇の良さをよく映画的に生かしてゐるシナリオ構成の見事さはさて置いてバーグマンの演技力にはほとほと感心させられました。
あゝ云ふ人の演技力になると次はどの様な動きでどの様な表情をすると云ふプロセスがはつきり観客に分かつてゐてその様な意識を越えたもう一つ高い所で観客を感動させずには置かない強靭な芸の力とでも云ふものを身に付けてゐる事が感じられます。何か云ふと矢張りそれはバーグマン自身にある俳優としての表現力の完璧さにあるのではないかと思はれるのです。私は落語が好きなんですが、同じ外題を円遊や文楽がやるのとそこらの新人がやるのとでは同じ事を云ひ同じゼスチユアをしながら全然違ふものを演じている様にすら思はれる事と同じであつて芸能の分野に於ける表現力が如何に大切なものか決定的な要素と迄云つていゝと考へられるのですがこれは単に芸能の世界だけではなく、文芸の分野でも矢張り同じ事が云へるのではないかと思はれます。例へば

乗鞍は凡そ七嶽霧月夜           たかし
(のりくらはおよそななだけきりづきよ)


この句はたかし氏が乗鞍へ吟行された時の一聯の作の一つですが、吾々俳句を嗜む者として同じ様なシチュエーションに置かれた場合大景的な捕握として誰だつてこゝを狙ふに違ひない最も普遍的であると云っていゝ主題であります。そこに表現のポイントがあります。かく狙ひかく表現されると云ふ事が分つてゐて猶このイメージの定着の確かさムーヴマンの鮮烈さが何処からくるのかそこに表現力があると云ふ今更の様に誰でも分つている文芸のイロハを申上げたのはその分り切つてゐる事実を俳人として意識してゐるか無意識でゐるかと云ふ修業の道程に於ける私自身の自覚の意味を改めて認識し直してみるために申上げているからに外なりません。
新奇な素材を狙ふ事より先づこの表現力の練磨でせう。即ちデッサン力を培ふ事が句の反撥力の最大の原動力であり、たとへば今の句で「凡そ」と云ふたゞそれだけの言葉の働きに依つて月明の中に黒々と朧にそびえ立つている山々が如何に躍動美をリアルに吾々の脳裡に伝え得てゐるか、つまり霧月夜と云ふ季語に対する有機的な働き、単なる修辞としてなら字引を引いても仲々に見当らない様な奇矯な言葉や空疎な難解熟語を駆使してリエゾン・デートルを誇示してゐる様な俳句が如何にそこらに多いことか何が偽物で何が真物かそれだけ分ればいゝ―こゝまで書いて来た時ホトトギス六月号がきました。中杉髏「さんの巻頭

去り行くか枯木に凭れゐし男        髏「(たかよ)
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


本当に好い句です。青春の寂寥感と云ふかオーヘンリーの短篇を読む様なフエータルな雰囲気を漂はせてをります。この句こそまぎれもない真物です。


(「青」昭和三十二年六月号より)


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2016年09月15日

私のホトトギス 〜山口 青邨〜

四Sの命名者、山口青邨が昭和三十二年当時の「ホトトギス」の新人評を行い、その一人として依田秋葭(現 明倫)、嶋田摩耶子、嶋田一歩、成瀬正としらと共に中杉髏「が採り上げられました。

中杉隆世
この人は今年になつて俄然出て来た人のやうだ。それこそ白面の青年ではないか。

ひややかな人の横顔ばかりなる       隆世(たかよ)
(ひややかなひとのよこがおばかりなる)

悴みてけふこの女醜さよ
(かじかみてきょうこのおんなみにくさよ)

冬ざれや革靴のみが新しく
(ふゆざれやかわぐつのみがあたらしく)

餅を食ふ指を舐りて悩みなし
(もちをくうゆびをねぶりてなやみなし)

冷まじき釘磔像の掌に足に
(すさまじきくぎたくぞうのてにあしに)


ものをよく見てゐる、冷酷さをもつてゐる。そこが現代にアッピールするところだ。人の横顔を見てゐる。ひやゝかな人達だと思ふ。悴みいじけてけふはこの女いかにも醜いと思ふ。すこしの同情もない。冬ざれの中に革靴だけが新しい。新調だから、何とそぐはないことだらう。アンバランスの氣持。餅を食つた指をなめて惱みがない。白痴(※)ではない。がこんな男もよい。ある男のカリカチュール。
この人の將來がたのしみだ―。
この人に似たやうな人に成瀬正とし君がゐる。然しあまり奮つてゐない。
最後に結論とでもいふやうなものをまとめて言つて見たい。
相當なセンスをもつて、現代の中にゐる若い人達らしい作品とは思ふが、私にはまだあきたらない。もつと輝くもの、もつとスマートなもの、もつと知的なもの、もつと意欲的なもの、もつと逞しい魂、體格、體臭をもつたもの、もつと悪魔的なもの、もつと感激的なもの、そしてもつと重厚なものが欲しい。不完全でも先にのびるものが欲しい。もちろんこれは一人で全部もつといふ意味ではない。夫々の人がもっとかういふことを發揮してもらひたい。新人などとちやほやされて、ひよはいままかたまつてしまつてはいけない。

太陽は太陽の座に地蟲出づ         柳澤白川(やなぎさわはくせん)
(たいようはたいようのざにじむしいず)

ヒヤシンス乾きし庭に菓子のごと      同
(ひやしんすかわきしにわにかしのごと)

骨に似し萱に芒に野火迫る         眞下喜太郎(ましたきたろう)
(ほねににしかやにすすきにのびせまる)

同じ顔竝べて女雛男雛かな         同
(おなじかおならべてめびなおびなかな)


ちよつと眼に入つたのでここに出したが、これらの人はそれこそみんなに較べればお祖父さんかお父さんだが、このセンスとこの新鮮な感覚だ。負けてはいけない。
新人が出るには勿論その人の力によることだが、一方これを出してやる人もゐなければならない、選者がそれを發見し、育てることも必要である。

(山口 青邨「夏草」主宰)



中杉髏「
(角川書店「俳句」昭和三十二年十月号)


※今日では一部不適切な表現があるが、時代背景や作品の芸術性を尊重しそのまま記載する。

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