2017年03月15日

私のホトトギス 〜天馬の解〜

炎天を駆ける天馬に鞍を置け        朱鳥(あすか)
(えんてんをかけるてんばにくらをおけ)


野見山朱鳥の代表句。
亀岡の青鍛練会の夜のこと。魚目、あきら両氏と上記の句をめぐって論争となった。両氏の共通点は、天馬を遠景に把え作者の願望の象徴と見るもので朱鳥第一等の作品とは云い難い。それよりも、

火を投げし如くに雲や朴の花 
(ひをなげしごとくにくもやほおのはな)


の方が遙かに鮮烈であり、「火を投げし如くに」という雲の形容こそ凄まじいリアリティを持つと云うものであった。
私の「天馬」解は、両氏とは根本的に異っている。すなわち
「鬣を立て翼を羽博ち鼻息を荒らげた天駆ける悍馬のダイナミックな姿が画面に大写しになり、奔然と真向に迫り来る躍動感」を私は全身で享受する。「その炎天は、まさに炎の激しく燃え立つ天」であって、「この悍馬にとり縋り、打ち跨らんとする必死の人間の姿」を想像する。勿論、馬も人も汗し、争い合いつつ空中を疾駆しているのである。それは、理想を追い求め、努力する者の姿でもある。
「炎天」という強い響きを持った詠い出し、「鞍を置け」という激しい命令形から、内燃する情熱の火の形象を感じ取らねば、句の価値は半減してしまうであろう。それは、少くとも「願望の象徴」というような甘い句ではない筈である。この句をこう解するが故に、私には、凛々たる挑戦の勇気が湧き起る。ここに朱鳥の「ロマンの血」と「火のような詩魂」が全開結晶されていると見るべきである。
朱鳥の句の中で、ここまで赤裸々に主観をぶっつけた例を他に知らない。
私が、この句を朱鳥第一等の作品とする理由は以上の通りであって、今も、私の「天馬の解」は決して間違っていないと信じている。


中杉髏「
(「椰子」二十六号 昭和五十五年四月一日より)



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2017年01月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(十二月號より)

汗の顔うなづくたびにさかしげに      中杉髏「(なかすぎたかよ)
(あせのかおうなずくたびにさかしげに)


教えを聽き入る眼が相手の眼をとらへてゐて、額が汗ばんでをり、教訓の言葉の意味が納得出來るたびに頷くのであるが、その汗の顔が理解のスびにきらりとかがやくのである。だからこの場合の「うなづく」は單調な「うなづき」ではない。作者は其中から「さかしげに」と云ふ眼の表情を發見したのである。活寫された汗の顔が生氣にあふれてゐる。(賢治)

何か云はれてゐる人の顔は汗ばんでゐる。云はれてゐる言葉に、一一うなづいてゐる。よく納得のいくうなづき方のやうに見える。それは物判りのよい聰明な顔つきであった。汗の顔がうなづいてゐるといふ表現が自らその姿をはっきり描きだしてゐる。(年尾)

(「ホトトギス」昭和三十三年一月号)

中杉髏「


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2016年12月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(六月號より)

悴みて己のことのほか知らぬ        神戸商大 中杉髏「(なかすぎたかよ)
(かじかみておのれのことのほかしらぬ)

悴みて人を懀める目ぞしたる
(かじかみてひとをにくめるめぞしたる)

去り行くか枯木に凭れゐし男
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


第一句目は手足がこごえて、自由を失ふほどの嚴しい寒さの中でのある男のプロフィルである。例へば夜汽車を待つ寒い驛頭ででも。その男はいかにも利己的な、貪欲さうな顔をしてゐたのである。悴んでゐるために一層自己だけに執著して他人の心などを考へる餘地がないやうに見えたのである。此の句は又自畫像と解せないこともない。悴んで、自己以外のものへの配慮が失はれて、自己丈に執著してゐる内心を投げ出してゐると、とれぬこともない。しかし私はやはり此の句は、行きずりのさうした男への作者の直感と解して面白い句のやうに思はれる。
次の句になると前句より一層ある男のプロフィルとして鑑賞出來る。その男は作者の投げた視線に對して懀しみのこもつた目をしたのである。
第三句目は公園のやうな所と考へてよいであらう。ベンチに腰かけてゐる作者の目に以前から枯木に凭れている一人の男が映つてゐるのである。その男――外套のポケットに手をつゝ込んでゐる――のことが一度目に止つてからは、意識を去らないのである。その中年の男はいかなる男かと推察して見るといろいろと考へは進められるのであるが、それだけに氣にかゝるのである。その男が急に動きが見えたのである。ゆつくりと歩き出したのである。あの男も立ち去るのか。作者はさう感じたのである。その感じなのである。
以上三句いづれもさうした感覺的な若い作者の心理なのである。それを對象の人物の姿として描ききらうとしてゐる。そこに新しい心理寫があるように思ふ。(けん二)

悴みてといふ現實の事柄と、その季題を通してうけとられる感じとが交つて作者の心持のこちらに傅つて來る時に、はじめて一句の持つ味が興味あるものとなる。殊に悴みてと云ふ季題はその事柄以上に作者の感じを表はすところがある。悴みつゝなほ孜々と働く姿を第一句に見、悴みつゝ人を見る目の嚴しく抵抗してゐる様子を第二句に見る。併し、兩句共に自己意識の強い人の姿と見ることも出來るかも知れない。
第三句は、いつ迄も枯木に凭れてゐた男が誰かを待つてゐる様子であつたが、時を經たのでそこを立ち去る氣配に見えたといふのである。時間的の經過が面白く窺はれる。(年尾)



中杉髏「
(「ホトトギス」昭和三十二年七月号)


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