2017年07月01日

円虹『ホトトギスの魅力(六)』

虚子先生の目に、稍々活気を呈しつつある≠謔、に映り心密かに祝福して居られた「ホトトギス」の水面下で或異変が生じつつあった事に誰も気付いてはおりませんでした。私は「ホトトギス」の他に池内たけし先生の「欅」と波多野爽波さんの「青」に投句をしており「ホトトギス」では連続巻頭になって写生俳句に夢中といった時のことです。昭和二十八年十月、「新人層の結集を図る」という旗印を掲げた「青」の創刊号から参加した私にとって波多野爽波という人は眩しい存在でした。句集「舗道の花」の序文に虚子先生は「一言にして云へば、爽波君の句などこそ、現代俳人の感覚を現はして居る、現代俳句と云ってよからうと思ふ。然も現代俳人と称へる者の陥って居る、怪奇蕪雑な措辞でなく、洗練された、形の整った、いい意味の近代的俳句である。」とされ、

冬空や猫塀づたひどこへもゆける       波多野爽波(はたのそうは)
(ふゆぞらやねこへいづたいどこえもゆける)

初鏡閨累々と横たはり            同
(はつかがみねやるいるいとよこたわり)

赤と青闘ってゐる夕焼けかな         同
(あかとあおたたかっているゆやけかな)


等二十七句を抜粋し推挙しておられます。
「青」創刊号には「山中湖雑詠」五句を投じられ、一周年には、有名な「『青』への言葉」をお寄せになっておられます。句集「舗道の花」は書林「新甲鳥」の昭和俳句叢書十巻の中の一つでその顔触れは、素十、波郷、立子、龍太、林火、朱鳥、多佳子、草田男、誓子という錚々たるものでありました。まことに伝統俳句の若きプリンスでありホープそのものであったと云えましょう。
昭和三十二年の「青」十二月号に「四誌連合会発足に当って」と題し、爽波自ら起草した一文が掲げられております。それは、『今回「山火」「年輪」「菜殻火」「青」の四誌に依って、四誌連合会≠ェ生まれることになりました。本会の構想は今春「年輪」創刊大会のため名古屋に赴いた折に、鶏二・朱鳥両氏との間に期せずして沸き上がったものであり、その後蓼汀氏の賛同を得て愈々実現への確信を深め、約半歳の日を経て漸く爰に発足の運びとなった次第であります。―中略―詮衡委員として四誌主宰者の外に、中村草田男氏の御参加を得ましたことは四誌連合会の出発に錦上花を添へるものと云ふことができませう。』と書かれて有りました。「伝統の正しい継承と逞しい更新の下に伝統俳句の明日を担う新人を顕賞する」ことを目的に結成された四誌連合は既に在った結社賞を強化し、前衛化しつつある俳壇に向かって伝統俳句の側から反撃を加えることと俳壇から超然としている伝統俳句の内部に向かっても覚醒を呼びかけるものであったと思われるのですが、「ホトトギス」の巻頭以外に賞≠ヘ不要であるという虚子先生のお考えに些か添わない面があったのかも知れません。
兎も角、先生ご存命中に生じたこの動きは「ホトトギス」に反旗を翻すものと誤解され、かつ、各所で物議をかもし、その結果「ホトトギス」に育まれ期待された新人層が相次いで離脱していくという事態に発展いたしました。(つづく)

中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(六)より)


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2017年06月15日

円虹『ホトトギスの魅力(五)』

このようにして虚子先生が慈しみ育まれた新人が天賦の個性を開花させた花園こそ「極楽の文学」即ち、花鳥諷詠のいわゆる「壺中の天地」であります。
明治・大正・昭和・平成にかけ、千二百五十号に達するホトトギスの歴史は俳壇の歴史であると言っても過言ではありません。地味で目立たないように見える一号一号の中にも伝統の土壌は営々と受継がれているのであり、大家となり独立して辺境に鉾を進める傍系まで含めますと、それは正しく大いなる裾野を曳く秀嶺富士の姿であり、宇宙に煌く大星座の観さえして参るのであります。
因みに、私の愛誦する代表的なホトトギス俳句を揚げさせていただきますと、

去年今年貫く棒の如きもの          高浜虚子(たかはまきょし)
(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり        飯田蛇笏(いいだだこつ)
(くろがねのあきのふうりんなりにけり)

白樺に月照りつゝも馬柵の霧         水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)
(しらかばにつきてりつつもませのきり)

流氷や宗谷の門波荒れやまず         山口誓子(やまぐちせいし)
(りゅうひょうやそうやのとなみ あれやまず)

葛城の山懐に寐釈迦かな           阿波野青畝(あわのせいほ)
(かつらぎのやまふところにねじゃかかな)

苗代に落ち一塊の畦の土           高野素十(たかのすじゅう)
(なわしろにおちいっかいのあぜのつち)

泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ        芝不器男(しばふきお)
(およぎめのくずがくるまではじらいぬ)

ぜんまいののの字ばかりの寂光土       川端茅舎(かわばたぼうしゃ)
(ぜんまいのののじばかりのじゃっこうど)

冬山の倒れかゝるを支へ行く         松本たかし(まつもとたかし)
(ふゆやまのたおれかかるをささえゆく)

萬緑の中や吾子の歯生え初むる        中村草田男(なかむらくさたお)
(ばんりょくのなかやあこのははえそむる)

昃れば春水の心あともどり          星野立子(ほしのたつこ)
( ひかげればしゅんすいのこころあともどり)

稲妻のゆたかなる夜も寐べきころ       中村汀女(なかむらていじょ)
(いなづまのゆたかなるよもねべきころ)

赤富士に露滂沱たる四辺かな         富安風生(とみやすふうせい)
(あかふじにつゆぼうだたるしへんかな)

みちのくの雪深ければ雪女郎         山口青邨(やまぐちせいそん)
(みちのくのゆきふかければゆきじょろう)

凍る断層黄河文明起りし地          長谷川素逝(はせがわそせい)
(こおるだんそうこうがぶんめいおこりしち)

底紅の咲くとなりにもまなむすめ       後藤夜半(ごとうやはん)
(そこべにのさくとなりにもまなむすめ)

鳥のうちの鷹に生れし汝かな         橋本鶏二(はしもとけいじ)
(とりのうちのたかにうまれしなんじかな)

炎天を駆ける天馬に鞍を置け         野見山朱鳥(のみやまあすか)
(えんてんをかけるてんばにくらをおけ)

冬空や猫塀づたひどこへもゆける       波多野爽波(はたのそうは)
(ふゆぞらやねこへいづたいどこえもゆける)


等々、一寸、思い出しただけでもこの通りで、これらの作家達には他にもまだまだ沢山の秀句があり、ここに揚げられなかったその後の人々の中にも掲句に劣らぬ名作の数々が生れ続けているのであります。
しかし、ホトトギスの歴史は必ずしも順風満帆であった訳ではありません。それは、虚子先生を中心とする曼荼羅のような世界であるとは言え、やはり、様々な人間関係によって織りなされてきた感情の絡む複雑な世界であって、ホトトギスの外は勿論の事、ホトトギスの内部においても派を異にし、反目し、離脱するという渦巻が生じてゆくことは致仕方の無いことであったのかも知れません。
しかし、そういう大小様々な渦を取り込みつつも花鳥諷詠という一大潮流となって「過去から現在へ」、「現在から未来へ」とつながれてゆく訳であります。
自然は一日として変化しない日はありません。様々の因果関係は生命存在の驚くべき事実となって現われます。次回は、その渦の一つであった「四誌連合」が何故生じたかを一人の生き証人としてお話させて戴きます。(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(五)より)


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2017年06月01日

円虹『ホトトギスの魅力(四)』

稽古会は虚子先生の小諸時代すなわち昭和二十年十二月二十七日の小諸山盧句会に端を発し、昭和二十五年七月二十二日から鎌倉・原の台の虚子庵で東大の学生を中心とする新人会と京大の学生を中心とする春菜会との東西対抗戦の形となり、その後ホトトギスの新人の研鑽の場として例年、山中湖畔虚子山荘又は千葉県鹿野山神野寺で催されることとなりました。
私は、昭和三十一年七月の鹿野山と昭和三十二年八月の山中湖の稽古会に参加させていただきました。鹿野山では

蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな     高浜虚子(たかはまきょし)
(くもにうまれあみをかけねばならぬかな)


という名句誕生の瞬間を目撃したこと、その時の句会で偶然、先生の右隣に坐る事になり、
「あなたは、何年生れですか。」
「昭和十年生れです。」
と、会話をさせていただく幸運に恵まれました。
山中湖の方は、社会人一年生で普通なら休めないところを日紡豊橋工場の方々のご厚意により椰子会の友岡子郷・浜崎素粒子・中野達也らと一緒に参加出来たことは本当に幸せでした。早暁の赤富士との出会いを初め、感動の連続であったと思います。特に私は京極杞陽先生に連れられて皆さんお一人お一人に紹介していただいたのでした。
あの虚子山荘近くの花野の中の光景は極楽そのもので、いま以て眩ゆいばかりの思い出となっております。

風生と死の話して涼しさよ         同
(ふうせいとしのはなししてすずしさよ)

避暑の荘富士山を皆持つてゐる       同
(ひしょのそうふじさんをみなもっている)

忘るるが故に健康ほとゝぎす        同
(わするるがゆえにけんこうほととぎす)


という先生の御作と共に「俳句は極楽の文学である」と仰言られた意味が私には実感として素直に納得出来るのです。
「私が言う極楽の文学というものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもそうではない。これによって慰安を得、心の糧を得、以て貧賤と斗い、病苦と斗う勇気を養う事が出来るのである。」
と「俳句への道」で説かれておりますが、逃避≠ニいう言葉に拘わられたのは、戦後の急進思想が貧富や差別の問題を重視するものであって共産主義や社会主義を標榜する立場から花鳥諷詠を現実逃避と攻撃されていたからであったと思います。当時の前衛俳句には社会主義リアリズムをバックボーンとする風潮が強かったのです。
花鳥諷詠は人間の根源である生死の問題に深く関わるもので生を肯定すると共に生の現実の抱えている矛盾すらありのままに受容する一大思想で人間存在を超越した世界観であり、人間の至福を科学や宗教では無く芸術によって到達しようとするものでありますから前衛俳句の延長線上にある現代俳句などとは全く相容れ無いのは至極当然のことと云わねばなりません。
昭和二十九年の文化の日に虚子先生は文化勲章を受章されましたが、先生は自分一個のためではなく俳壇全体が賞されたものであるとの広い心を示されました。(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(四)より)


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