2018年03月01日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成二十六年二月號より)

椅子の上に秋が坐つてをりにけり      中杉髏「(なかすぎたかよ)
(いすのえにあきがすわっておりにけり)


自然の凋落期である秋になると、爽やかであるが物淋しく哀れな雰囲気が漂う。あるとき作者は、何気なく椅子に坐ったのだが、そこで思わずも充分に秋の雰囲気を堪能することができた。あたかも秋が、作者より先にその椅子に坐っていて、作者を秋の雰囲気に同化させてしまったかのように思えた。さらにどの椅子にも秋が坐っていて、人が坐れば秋を楽しませてくれるように思ったのである。(仁義)

不思議な情景が見て取れる、というより、色々な風景が想像出来て、その色々な風景を想像していると、楽しくもなり、悲しくもなり、ちょっと恐ろしくもなるのは筆者だけだろうか。この椅子がどんな形をしているかを先ず想像すると、そこから余韻のように様々な「秋」が見えてくるだろう。(廣太郎)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成二十六年三月号)


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2018年02月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成二十四年六月號より)

綱渡りしてゆく独楽となりにけり      中杉髏「(なかすぎたかよ)
(つなわたりしてゆくこまとなりにけり)


曲独楽の一種であろうか。なりにけりと言って独楽の推移が描かれているので、はじめのうちは普通に回っていた独楽であったのが、何となく自然に綱渡りをしてゆく独楽になっていたのである。昔なつかしい巧みな独楽回しである。(比奈夫)

最近は正月の遊びとしての「独楽」も少し廃れてきてしまったのではないかと思い、悲しい限りではあるが、筆者が小学生の頃は、独楽廻しはもとより、その応用とも言える曲芸のような技を競った記憶がある。「綱渡り」はかなり高度な技だが、独楽の躍動感が描かれている。(廣太郎)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成二十四年七月号)


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2018年02月01日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成二十年一月號より)

虚子と会ひ風生とあふ花野かな       中杉髏「(なかすぎたかよ)
(きょしとあいふうせいとあうはなのかな)


この花野は、山中湖にある虚子山荘、富士の裾野の大花野を、先ず心に画いた。虚子の事を思い、風生の事を考え乍ら、花野をさ迷っていると、いつか虚子に会ったような、又風生に逢ったような錯覚に捕われる。曽て虚子と共に亦風生と共に花野に行を共にされた思い出があるのであろう。その日の事を考えているといつのまにか、現実となり、実際に会われているような迫力があり、美しい花野に虚子を思い、風生を慕われる心の滲む句であり、夢と現実が交叉して、花野ならではの心打たれる一句と思う(芳子)

昭和三十二年七月二十九日に虚子が詠んだ「風生と死の話して涼しさよ」という句が先ず頭に浮かんだ。これは山中湖の老柳山荘で詠まれたものだが、作者もその場所で詠まれたのではないだろうか。まるでタイムスリップしたように虚子と風生が現われたのだろうか。「花野」の広さが見えてくる。(廣太郎)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成二十年二月号)


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