2017年09月15日

円虹『ホトトギスの魅力(十一)』

私は貧乏な学生でありました。両親は私が大学を受験することに反対しました。私の八才年上の姉が、落ちたら諦めるという条件で一度だけ神戸商大を受験することを両親に認めさせて呉れました。高校の商業科からは神戸商大の他には小樽商大しか受験できず下宿など不可能なため全国でたった一つ、それも一度限りの挑戦で合格できたのでした。

入学のその角帽を被て来たり        五十嵐播水(いがらしばんすい)
(にゅうがくのそのかくぼうをきてきたり)


「九年母」の新樹会で「欲しい人があれば」と云って回されて来た松本たかしの句集「石魂」は頒価三百五十円でありました。私には手の届かない代物でした。
私が「ホトトギス」の巻頭をいただいた折、或人から「いったい、いくらお金を出したんだ。」と質問されてびっくり仰天したことがありました。お金を出すどころかお礼状すら書くことを知らなかった私は大変困惑致しました。
虚子先生が亡くなられた折も「君は絶対行くべきだ」と周囲から云われましたがお金の工面が出来ず、家の前で夜空を見上げてただ呆然としておりました。

  悼虚子
朧夜のさらに朧を深うしぬ         中杉髏「(なかすぎたかよ)
(おぼろよのさらにおぼろをふこうしぬ)


私はもっと自己主張をすべきであったのかも知れませんが、その後、四誌連合に加わって大恩ある「ホトトギス」を去った悔が、「ホトトギス」に復帰した今になって激しく湧き上ってくるのを覚えます。
平成八年四月、汀子先生からホトトギス同人に推挙していただきました。社告には「ホトトギス同人とは権利も義務もありません。ただホトトギスの伝統を正しく理解して、立派な作品を作る努力をして頂きたいのでございます。ホトトギス創刊百年に向けてお力添え下さいませ。」と書かれてありました。俳壇広しといえども同人会費ゼロという結社は「ホトトギス」以外には無いのではないでしょうか。
しかし、日本伝統俳句協会の創設をはじめ、創刊百年の諸行事、虚子記念文学館の設立など大きな仕事が相次いで実行されてゆくのはどうしてなのでしょう。それは、虚子先生が大切にされた「心」が曲げられること無く年尾先生や汀子先生に受け継がれているからであります。そして、人々の「ホトトギス」につながる喜びが善意の大きな輪となって力を発揮するからだと思われます。
世阿弥の『風姿花伝』の中に「初心忘るべからず」という言葉があることを知らない人はありませんが、これは単に「初心」の美を讃えたものではなく「極め続け、極めたのちに達する心」の最高の境地を指していることを忘れてはなりません。「初心」に対するものは「慢心」です。私は、俳壇を見渡してこの「慢心」の無い「初心」の境地は「ホトトギス」以外では得られないと思っております。
初めて汀子先生にお会いしたとき、「私など、虚子の築いたお堂の縁拭きをしているようなものですよ。」と仰言ったその敬虔なお言葉に大変感銘を受けました。「ホトトギス」の大発展の原因は、この真摯な「学ぶ心」を主宰ご自身が大切になさっていることであると知ったのでした。
(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(十一)より)


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2017年09月01日

円虹『ホトトギスの魅力(十)』

風生と死の話して涼しさよ         高浜虚子(たかはまきょし)
(ふうせいとしのはなししてすずしさよ


山中湖の稽古会で出会ったこの句は虚子先生の死生観を知る上で特に印象深いものがあります。『俳句への道』の中に「笹子会諸君」という一文があり、死≠ノついての感想を述べられている箇所がありますが、それは、「死というものは分らないけれども、人が死んでしまって、無に帰してしまうとは考えない。仮りに宇宙が生きているとすると、どこまでもその宇宙の一分子となって残る、という事だけは考えられる。分子といったところで形のあるものではなく一つの精力(エネルギー)となって残る。それがどんなものになるのか分らないがとにかく一つの精力となって残る。私はそんなことをただぼんやりと考えておる。」というものであります。
手塚治虫の漫画『ブッダ』の中ではブラフマンという老人がブッダの前に現れて「宇宙という大きな生命のもとから無数の生命のかけらが生れる」有様を視覚化して見せ、また、『火の鳥』という漫画では火の鳥の生血を啜って不死身となった人間が死を願望するくだりがあって複雑な心の迷いが描かれております。
俳句と漫画は、活字文化と映像文化という違いはありますが、ここでは死≠ニ結び付いた宇宙≠ェテーマとなっております。そこでこの二人のすぐれた芸術家は宇宙は生きている≠ニいうことと人間と宇宙は一体である≠ニいうことを直感しているのです。
私は日本人の中で最も偉大な人物の一人として弘法大師空海を尊敬しております。弘法大師の作られたひら仮名のいろは四十八文字が日本文化の基となっていることは衆知の通りでありますがこのいろは歌が「色即是空」の奥義をやさしく表現した歌になっていることも知らない人はありません。その弘法大師が一生を費して悟られた「経の中の経」と云われる「般若心経」は僅か二百六十二文字の漢字で成り立っております。
漢字は象形文字から始っておりますが、その特色は一字の中に沢山の意味やイメージが凝縮されているところにあります。ひら仮名は漢字の変型でありますから、やはり、漢字と同様の性格を備えております。つまり、高い象徴性を持っているのです。中国語は漢字文化で発音は四声となりますが日本語は漢字まじりひら仮名文化で発音は二音、一音の組合わせで日本人の呼吸と合わさって五七乃至七五調が生み出されました。
このように東洋で生まれた思想や文化は、直観によって物事を短的かつ包括的に悟るという点で大変すぐれたものであると云えます。日本の俳句はその文化の粋として日本で初めて形成された文芸ジャンルであります。虚子先生が、「俳句はどんな思想や人生を詠っても良い。それが俳句になっておれば良い。俳句になっているか否かは私が判断する」と云われていることは、このジャンル観に立つものであって世界に誇り得る最短詩型の意味はそこにあります。
(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(十)より)


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2017年08月15日

円虹『ホトトギスの魅力(九)』

「ホトトギス巻頭句集」には有名無名の人々の優れた作品が綺羅星のように煌めいております。そこでは、萬葉集のように素朴で雄渾な庶民の真情が飾らずに表出されております。例えば

わらうてはをられずなりぬ梅雨の漏り    森川暁水(もりかわぎょうすい)
わろうてはおられずなりぬつゆのもり

露の世のもめを淋しく坐りをり       清原枴童(きよはらかいどう)
つゆのよのもめをさびしくすわりおり


などの庶民生活の哀感や

南十字燃ゆ海征かば陸征かば        福西正幸(ふくにしまさゆき)
みなみじゅうじもゆうみゆかばりくゆかば

のような防人の愛国の心情、

生れたる蝉にみどりの橡世界        田畑美穂女(たばたみほじょ)
うまれたるせみにみどりのとちせかい

青年となりし裸の吾子まぶし        丸橋静子(まるはししずこ)
せいねんとなりしはだかのあこまぶし


という瑞々しい女性特有の抒情感覚、

吹雪ても吹雪ても北海道の子よ       吉田もりゑ(よしだもりえ)
ふぶきてもふぶきてもほっかいどうのこよ

病む窓を夏雲なつかしく通る        剣持久子(けんもちひさこ)
やむまどをなつぐもなつかしくとおる


の一人子へ遺す母の痛切な言葉や病む身を省みての諦観と感謝の念など。
最近では、阪神・淡路大震災の

布団より枕があはれ瓦礫の中        後藤比奈夫(ごとうひなお)
ふとんよりまくらがあわれがれきのなか


の悲痛な光景が心を打ちます。
別に巻頭に限らず二句欄や一句欄の中にも優秀な作品があり、それ等は十年後の「雑詠選集〔予選稿〕」に拾い上げられてゆきます。
ホトトギスの魅力は選者と投句家が一体となって懸命に虚子先生の訓えを守りつつ精進している姿に触れることであります。句の上手下手などは問題ではないのです。
俳句と正しく取組む初心の持続は結社誌にとって何よりも重要なことなのであります。
虚子先生は「俳句への道」の中で「俳諧九品仏」の項において『俳諧須菩提経(はいかいすぼたきょう)』を書かれておりますが、これは、俳句有縁の衆生の成仏というたとえで俳句指導の奥義を示されたものと云えるでしょう。
先生の主張される「花鳥諷詠」と「客観写生」のうち、「客観写生」を徹底して「純粋客観写生」まで俳句を高めた人に高野素十があります。それは無技巧の技巧≠ニ称される素晴らしい写生で先述の四誌連合の主宰者達もみな心酔しておりました。

風吹いて蝶々迅く飛びにけり        高野素十(たかのすじゅう)
かぜふいてちょうちょうはやくとびにけり

桔梗の花の中よりくもの糸
(きちこうのはなのなかよりくものいと)

芦刈の天を仰いで梳る
(あしかりのてんをあおいでくしけずる)

玉解いて即ち高き芭蕉かな
(たまといてすなわちたかきばしょうかな)

苗代に落ち一塊の畦の土
(なわしろにおちいっかいのあぜのつち)


客観写生に徹することによって大宇宙の生命に触れる∞人間の意思を小主観とすれば、大宇宙の意思は大主観というべきである≠ニいう虚子先生の俳句思想を作品化し実証して見せたのが高野素十でありました。
初心者と見紛う程の平明な表現の中に写生の極北が示されているのです。禅の「十牛之図」を見る思いがします。「善差別」とか「一にして全」とか「色即是空」とかの眞言蜜教の「十住心」なども連想されて参ります。
(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(九)より)


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