2017年11月15日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成十年四月號より)

日光と月光おはす秋の闇          中杉髏「(なかすぎたかよ)
(にっこうとがっこうおわすあきのやみ)


奈良三月堂内陣には、多くのすぐれた天平の仏たちを見ることができる。日光菩薩、不空羂索観音、月光菩薩など。日光および月光は本尊の観音の両脇に侍している。和辻哲郎は「美しいのはただ本尊のみではない。周囲の諸像も皆それぞれに美しい。脇立ちの梵天帝釈の小さい塑像(日光、月光ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。」(『古寺巡礼』)といっている。ただし、残念ながら私は本物を見たことがない。ただ写真で見るだけであるが、それでも美しさは十分察することができる。入江泰吉は日光、月光両菩薩の美しさのうち、特に手について、「どちらの合掌された二つの手も、血のかよういきいきとした表情をもっていて、諸仏の合掌中の最高のものだと思う。」(『大和路』)といっている。これらの仏たちが闇のなかに、静まりかえっておわす様子はどんなものだろうか。一緒にいる作者はどんな気がするのだろうか。ゾクゾクするような緊張感と陶酔感があるのだろうか。
そしてこの闇は秋の闇でなければならない。乾燥した空気のなかの、静かな、しみじみした秋の闇でなければならぬと思う。(暮潮)

薬師如来の両脇に侍る日光菩薩と月光菩薩の薬師三尊を拝み敬虔な心持で寺を辞す作者である。いま拝んだ本堂には日光菩薩も月光菩薩も在すことでまだ印象が消えないまま振り返るとそこには秋の澄んだ闇が堂を包んでいるのである。心の推移が描けている。(汀子)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成十年五月号)


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2017年11月01日

私のホトトギス 〜雑詠句評〜(平成八年一月號より)

表札も故人のままや露の家         中杉髏「(なかすぎたかよ)
(ひょうさつもこじんのままやつゆのいえ)


亡くなった家の門にいつ迄もその人の名の表札を外さずに掲げてあるところをよく見かけるものである。主は居られないのにその家の門に立って故人の名がかけてあると、何かまだ中に居られるような気がして生前のなつかしさがこみ上げて来て、しばらく本当に亡くなったのかという戸惑いさえ覚えるものである。現実にひき戻された時のいいしれぬ虚しさは言葉に言い尽くせない。露の世の露の家であると述懐されている作者の姿が見える句で、露の季語のひびきが美しくも哀れである。(芳子)

主が亡くなったその家を久しく訪ねることもなかった作者である。この度久し振りに訪ねた家には主の名前が表札に掛けられたままになっている。それを見てふと懐かしく思い、もうその主はいないのだと淋しくなっていく心の推移を露という季題が代弁している。(汀子)


中杉髏「
(「ホトトギス」平成八年二月号)


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2017年10月01日

円虹『ホトトギスの魅力(完)』

私は中学生の頃から「人間とは何か」という疑問に取り憑かれてきました。これは今以て謎のままです。そして現在、「宇宙とは何か」、「宇宙の中心はどこにあるのか」という疑問に取り憑かれております。
私が自分なりに考えていることは「宇宙の中心は無数にある」、「人間の心の中に宇宙の中心がある」ということで「すべては零から生まれ、零にむかって引き合い、零に戻る」ということです。この考えに立ちますと、空海が、『三教指帰』の中で汝の妻は我なり≠ニ云われたことや曼陀羅の世界≠ェ何となくわかるような気が致します。
「ホトトギス」の花鳥諷詠=A客観写生≠ヘ、このような自分のものの見方≠深め、自分の心の中を写し出すものとして私にとって大変大切なものとなってゆきました。私は、写生をするときいつも自然に向かっていると同時に自分の中へ向っている目を感じております。
波多野爽波さんから良く「観念的過ぎる」と注意されましたが、その爽波さんに対して「観念が無さ過ぎる」と逆襲しておりました。昭和五十七年一月、大阪の淀屋橋の花外摟で訣別することとなりましたが、それは写生≠ノ対する考え方の根本的な相違に依るものでありました。
約三十年間、「ホトトギス」を離れましたが、それは、地球からどんどん遠離りながら宇宙空間でいろんな星と出会っているような時期であったと思います。そして振返って眺めた地球の美しさは地球の外に立つことによって初めて知ることができるように「ホトトギス」の素晴らしさは「ホトトギス」を離れ、振返ることに依って実感されたのでありました。
「青」を止めて第一句集『石炎』を出したあと、『俳人格論』で虚子論を展開された平畑静塔氏から「私と二人でやりたいような気もしますが少々こちらは老けました。一寸私小説的境涯の句があるのが気になりますが何れはそれは超えてゆかれると信じます。」というお言葉をいただいたことがありました。
さて、虚子先生の生涯を締め括る写生文は「私」であります。芸術は「作品本位」であるべきか「作家本位」であるべきかという論議が良く行われますが、私はどちらでもあり、どちらでもない、いわば渾然一体となった境地が最高の姿であると思っております。しかし、作者の一貫した世界と繋がらない作品は無意味、無価値なものと考えます。
俳句は、虚構の文学ではありません。俳句は「私」の文学であるというのが私の到達した結論であります。石田波郷氏が「俳句は私小説である」、「俳句は偽らず」と云われたことに非常に近い考えであります。だから俳句を造型とする論を正しいとは思いません。ただ、客観に徹することが主観を最も良く表現するという逆説的発想を極めて人間的である≠ニ思いますし、「ホトトギス」に依って「極楽に住する心」、「生、老、病、死」を苦と観せず、楽と観ずる心の持ち様≠学べたことを大変有難く感じます。迷いの無さこそ「ホトトギスの最大の魅力」と申し上げて本稿を終わらせていただくことに致します。
拙い文章に永らくお付き合い下さいまして誠に有難うございました。皆さまのご精進を心からお祈り申し上げます。

(おわり)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(完)より)


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