2017年10月01日

円虹『ホトトギスの魅力(完)』

私は中学生の頃から「人間とは何か」という疑問に取り憑かれてきました。これは今以て謎のままです。そして現在、「宇宙とは何か」、「宇宙の中心はどこにあるのか」という疑問に取り憑かれております。
私が自分なりに考えていることは「宇宙の中心は無数にある」、「人間の心の中に宇宙の中心がある」ということで「すべては零から生まれ、零にむかって引き合い、零に戻る」ということです。この考えに立ちますと、空海が、『三教指帰』の中で汝の妻は我なり≠ニ云われたことや曼陀羅の世界≠ェ何となくわかるような気が致します。
「ホトトギス」の花鳥諷詠=A客観写生≠ヘ、このような自分のものの見方≠深め、自分の心の中を写し出すものとして私にとって大変大切なものとなってゆきました。私は、写生をするときいつも自然に向かっていると同時に自分の中へ向っている目を感じております。
波多野爽波さんから良く「観念的過ぎる」と注意されましたが、その爽波さんに対して「観念が無さ過ぎる」と逆襲しておりました。昭和五十七年一月、大阪の淀屋橋の花外摟で訣別することとなりましたが、それは写生≠ノ対する考え方の根本的な相違に依るものでありました。
約三十年間、「ホトトギス」を離れましたが、それは、地球からどんどん遠離りながら宇宙空間でいろんな星と出会っているような時期であったと思います。そして振返って眺めた地球の美しさは地球の外に立つことによって初めて知ることができるように「ホトトギス」の素晴らしさは「ホトトギス」を離れ、振返ることに依って実感されたのでありました。
「青」を止めて第一句集『石炎』を出したあと、『俳人格論』で虚子論を展開された平畑静塔氏から「私と二人でやりたいような気もしますが少々こちらは老けました。一寸私小説的境涯の句があるのが気になりますが何れはそれは超えてゆかれると信じます。」というお言葉をいただいたことがありました。
さて、虚子先生の生涯を締め括る写生文は「私」であります。芸術は「作品本位」であるべきか「作家本位」であるべきかという論議が良く行われますが、私はどちらでもあり、どちらでもない、いわば渾然一体となった境地が最高の姿であると思っております。しかし、作者の一貫した世界と繋がらない作品は無意味、無価値なものと考えます。
俳句は、虚構の文学ではありません。俳句は「私」の文学であるというのが私の到達した結論であります。石田波郷氏が「俳句は私小説である」、「俳句は偽らず」と云われたことに非常に近い考えであります。だから俳句を造型とする論を正しいとは思いません。ただ、客観に徹することが主観を最も良く表現するという逆説的発想を極めて人間的である≠ニ思いますし、「ホトトギス」に依って「極楽に住する心」、「生、老、病、死」を苦と観せず、楽と観ずる心の持ち様≠学べたことを大変有難く感じます。迷いの無さこそ「ホトトギスの最大の魅力」と申し上げて本稿を終わらせていただくことに致します。
拙い文章に永らくお付き合い下さいまして誠に有難うございました。皆さまのご精進を心からお祈り申し上げます。

(おわり)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(完)より)


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2017年09月15日

円虹『ホトトギスの魅力(十一)』

私は貧乏な学生でありました。両親は私が大学を受験することに反対しました。私の八才年上の姉が、落ちたら諦めるという条件で一度だけ神戸商大を受験することを両親に認めさせて呉れました。高校の商業科からは神戸商大の他には小樽商大しか受験できず下宿など不可能なため全国でたった一つ、それも一度限りの挑戦で合格できたのでした。

入学のその角帽を被て来たり        五十嵐播水(いがらしばんすい)
(にゅうがくのそのかくぼうをきてきたり)


「九年母」の新樹会で「欲しい人があれば」と云って回されて来た松本たかしの句集「石魂」は頒価三百五十円でありました。私には手の届かない代物でした。
私が「ホトトギス」の巻頭をいただいた折、或人から「いったい、いくらお金を出したんだ。」と質問されてびっくり仰天したことがありました。お金を出すどころかお礼状すら書くことを知らなかった私は大変困惑致しました。
虚子先生が亡くなられた折も「君は絶対行くべきだ」と周囲から云われましたがお金の工面が出来ず、家の前で夜空を見上げてただ呆然としておりました。

  悼虚子
朧夜のさらに朧を深うしぬ         中杉髏「(なかすぎたかよ)
(おぼろよのさらにおぼろをふこうしぬ)


私はもっと自己主張をすべきであったのかも知れませんが、その後、四誌連合に加わって大恩ある「ホトトギス」を去った悔が、「ホトトギス」に復帰した今になって激しく湧き上ってくるのを覚えます。
平成八年四月、汀子先生からホトトギス同人に推挙していただきました。社告には「ホトトギス同人とは権利も義務もありません。ただホトトギスの伝統を正しく理解して、立派な作品を作る努力をして頂きたいのでございます。ホトトギス創刊百年に向けてお力添え下さいませ。」と書かれてありました。俳壇広しといえども同人会費ゼロという結社は「ホトトギス」以外には無いのではないでしょうか。
しかし、日本伝統俳句協会の創設をはじめ、創刊百年の諸行事、虚子記念文学館の設立など大きな仕事が相次いで実行されてゆくのはどうしてなのでしょう。それは、虚子先生が大切にされた「心」が曲げられること無く年尾先生や汀子先生に受け継がれているからであります。そして、人々の「ホトトギス」につながる喜びが善意の大きな輪となって力を発揮するからだと思われます。
世阿弥の『風姿花伝』の中に「初心忘るべからず」という言葉があることを知らない人はありませんが、これは単に「初心」の美を讃えたものではなく「極め続け、極めたのちに達する心」の最高の境地を指していることを忘れてはなりません。「初心」に対するものは「慢心」です。私は、俳壇を見渡してこの「慢心」の無い「初心」の境地は「ホトトギス」以外では得られないと思っております。
初めて汀子先生にお会いしたとき、「私など、虚子の築いたお堂の縁拭きをしているようなものですよ。」と仰言ったその敬虔なお言葉に大変感銘を受けました。「ホトトギス」の大発展の原因は、この真摯な「学ぶ心」を主宰ご自身が大切になさっていることであると知ったのでした。
(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(十一)より)


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2017年09月01日

円虹『ホトトギスの魅力(十)』

風生と死の話して涼しさよ         高浜虚子(たかはまきょし)
(ふうせいとしのはなししてすずしさよ


山中湖の稽古会で出会ったこの句は虚子先生の死生観を知る上で特に印象深いものがあります。『俳句への道』の中に「笹子会諸君」という一文があり、死≠ノついての感想を述べられている箇所がありますが、それは、「死というものは分らないけれども、人が死んでしまって、無に帰してしまうとは考えない。仮りに宇宙が生きているとすると、どこまでもその宇宙の一分子となって残る、という事だけは考えられる。分子といったところで形のあるものではなく一つの精力(エネルギー)となって残る。それがどんなものになるのか分らないがとにかく一つの精力となって残る。私はそんなことをただぼんやりと考えておる。」というものであります。
手塚治虫の漫画『ブッダ』の中ではブラフマンという老人がブッダの前に現れて「宇宙という大きな生命のもとから無数の生命のかけらが生れる」有様を視覚化して見せ、また、『火の鳥』という漫画では火の鳥の生血を啜って不死身となった人間が死を願望するくだりがあって複雑な心の迷いが描かれております。
俳句と漫画は、活字文化と映像文化という違いはありますが、ここでは死≠ニ結び付いた宇宙≠ェテーマとなっております。そこでこの二人のすぐれた芸術家は宇宙は生きている≠ニいうことと人間と宇宙は一体である≠ニいうことを直感しているのです。
私は日本人の中で最も偉大な人物の一人として弘法大師空海を尊敬しております。弘法大師の作られたひら仮名のいろは四十八文字が日本文化の基となっていることは衆知の通りでありますがこのいろは歌が「色即是空」の奥義をやさしく表現した歌になっていることも知らない人はありません。その弘法大師が一生を費して悟られた「経の中の経」と云われる「般若心経」は僅か二百六十二文字の漢字で成り立っております。
漢字は象形文字から始っておりますが、その特色は一字の中に沢山の意味やイメージが凝縮されているところにあります。ひら仮名は漢字の変型でありますから、やはり、漢字と同様の性格を備えております。つまり、高い象徴性を持っているのです。中国語は漢字文化で発音は四声となりますが日本語は漢字まじりひら仮名文化で発音は二音、一音の組合わせで日本人の呼吸と合わさって五七乃至七五調が生み出されました。
このように東洋で生まれた思想や文化は、直観によって物事を短的かつ包括的に悟るという点で大変すぐれたものであると云えます。日本の俳句はその文化の粋として日本で初めて形成された文芸ジャンルであります。虚子先生が、「俳句はどんな思想や人生を詠っても良い。それが俳句になっておれば良い。俳句になっているか否かは私が判断する」と云われていることは、このジャンル観に立つものであって世界に誇り得る最短詩型の意味はそこにあります。
(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(十)より)


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