2017年06月15日

円虹『ホトトギスの魅力(五)』

このようにして虚子先生が慈しみ育まれた新人が天賦の個性を開花させた花園こそ「極楽の文学」即ち、花鳥諷詠のいわゆる「壺中の天地」であります。
明治・大正・昭和・平成にかけ、千二百五十号に達するホトトギスの歴史は俳壇の歴史であると言っても過言ではありません。地味で目立たないように見える一号一号の中にも伝統の土壌は営々と受継がれているのであり、大家となり独立して辺境に鉾を進める傍系まで含めますと、それは正しく大いなる裾野を曳く秀嶺富士の姿であり、宇宙に煌く大星座の観さえして参るのであります。
因みに、私の愛誦する代表的なホトトギス俳句を揚げさせていただきますと、

去年今年貫く棒の如きもの          高浜虚子(たかはまきょし)
(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり        飯田蛇笏(いいだだこつ)
(くろがねのあきのふうりんなりにけり)

白樺に月照りつゝも馬柵の霧         水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)
(しらかばにつきてりつつもませのきり)

流氷や宗谷の門波荒れやまず         山口誓子(やまぐちせいし)
(りゅうひょうやそうやのとなみ あれやまず)

葛城の山懐に寐釈迦かな           阿波野青畝(あわのせいほ)
(かつらぎのやまふところにねじゃかかな)

苗代に落ち一塊の畦の土           高野素十(たかのすじゅう)
(なわしろにおちいっかいのあぜのつち)

泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ        芝不器男(しばふきお)
(およぎめのくずがくるまではじらいぬ)

ぜんまいののの字ばかりの寂光土       川端茅舎(かわばたぼうしゃ)
(ぜんまいのののじばかりのじゃっこうど)

冬山の倒れかゝるを支へ行く         松本たかし(まつもとたかし)
(ふゆやまのたおれかかるをささえゆく)

萬緑の中や吾子の歯生え初むる        中村草田男(なかむらくさたお)
(ばんりょくのなかやあこのははえそむる)

昃れば春水の心あともどり          星野立子(ほしのたつこ)
( ひかげればしゅんすいのこころあともどり)

稲妻のゆたかなる夜も寐べきころ       中村汀女(なかむらていじょ)
(いなづまのゆたかなるよもねべきころ)

赤富士に露滂沱たる四辺かな         富安風生(とみやすふうせい)
(あかふじにつゆぼうだたるしへんかな)

みちのくの雪深ければ雪女郎         山口青邨(やまぐちせいそん)
(みちのくのゆきふかければゆきじょろう)

凍る断層黄河文明起りし地          長谷川素逝(はせがわそせい)
(こおるだんそうこうがぶんめいおこりしち)

底紅の咲くとなりにもまなむすめ       後藤夜半(ごとうやはん)
(そこべにのさくとなりにもまなむすめ)

鳥のうちの鷹に生れし汝かな         橋本鶏二(はしもとけいじ)
(とりのうちのたかにうまれしなんじかな)

炎天を駆ける天馬に鞍を置け         野見山朱鳥(のみやまあすか)
(えんてんをかけるてんばにくらをおけ)

冬空や猫塀づたひどこへもゆける       波多野爽波(はたのそうは)
(ふゆぞらやねこへいづたいどこえもゆける)


等々、一寸、思い出しただけでもこの通りで、これらの作家達には他にもまだまだ沢山の秀句があり、ここに揚げられなかったその後の人々の中にも掲句に劣らぬ名作の数々が生れ続けているのであります。
しかし、ホトトギスの歴史は必ずしも順風満帆であった訳ではありません。それは、虚子先生を中心とする曼荼羅のような世界であるとは言え、やはり、様々な人間関係によって織りなされてきた感情の絡む複雑な世界であって、ホトトギスの外は勿論の事、ホトトギスの内部においても派を異にし、反目し、離脱するという渦巻が生じてゆくことは致仕方の無いことであったのかも知れません。
しかし、そういう大小様々な渦を取り込みつつも花鳥諷詠という一大潮流となって「過去から現在へ」、「現在から未来へ」とつながれてゆく訳であります。
自然は一日として変化しない日はありません。様々の因果関係は生命存在の驚くべき事実となって現われます。次回は、その渦の一つであった「四誌連合」が何故生じたかを一人の生き証人としてお話させて戴きます。(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(五)より)


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2017年06月01日

円虹『ホトトギスの魅力(四)』

稽古会は虚子先生の小諸時代すなわち昭和二十年十二月二十七日の小諸山盧句会に端を発し、昭和二十五年七月二十二日から鎌倉・原の台の虚子庵で東大の学生を中心とする新人会と京大の学生を中心とする春菜会との東西対抗戦の形となり、その後ホトトギスの新人の研鑽の場として例年、山中湖畔虚子山荘又は千葉県鹿野山神野寺で催されることとなりました。
私は、昭和三十一年七月の鹿野山と昭和三十二年八月の山中湖の稽古会に参加させていただきました。鹿野山では

蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな     高浜虚子(たかはまきょし)
(くもにうまれあみをかけねばならぬかな)


という名句誕生の瞬間を目撃したこと、その時の句会で偶然、先生の右隣に坐る事になり、
「あなたは、何年生れですか。」
「昭和十年生れです。」
と、会話をさせていただく幸運に恵まれました。
山中湖の方は、社会人一年生で普通なら休めないところを日紡豊橋工場の方々のご厚意により椰子会の友岡子郷・浜崎素粒子・中野達也らと一緒に参加出来たことは本当に幸せでした。早暁の赤富士との出会いを初め、感動の連続であったと思います。特に私は京極杞陽先生に連れられて皆さんお一人お一人に紹介していただいたのでした。
あの虚子山荘近くの花野の中の光景は極楽そのもので、いま以て眩ゆいばかりの思い出となっております。

風生と死の話して涼しさよ         同
(ふうせいとしのはなししてすずしさよ)

避暑の荘富士山を皆持つてゐる       同
(ひしょのそうふじさんをみなもっている)

忘るるが故に健康ほとゝぎす        同
(わするるがゆえにけんこうほととぎす)


という先生の御作と共に「俳句は極楽の文学である」と仰言られた意味が私には実感として素直に納得出来るのです。
「私が言う極楽の文学というものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもそうではない。これによって慰安を得、心の糧を得、以て貧賤と斗い、病苦と斗う勇気を養う事が出来るのである。」
と「俳句への道」で説かれておりますが、逃避≠ニいう言葉に拘わられたのは、戦後の急進思想が貧富や差別の問題を重視するものであって共産主義や社会主義を標榜する立場から花鳥諷詠を現実逃避と攻撃されていたからであったと思います。当時の前衛俳句には社会主義リアリズムをバックボーンとする風潮が強かったのです。
花鳥諷詠は人間の根源である生死の問題に深く関わるもので生を肯定すると共に生の現実の抱えている矛盾すらありのままに受容する一大思想で人間存在を超越した世界観であり、人間の至福を科学や宗教では無く芸術によって到達しようとするものでありますから前衛俳句の延長線上にある現代俳句などとは全く相容れ無いのは至極当然のことと云わねばなりません。
昭和二十九年の文化の日に虚子先生は文化勲章を受章されましたが、先生は自分一個のためではなく俳壇全体が賞されたものであるとの広い心を示されました。(つづく)


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(四)より)


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2017年05月15日

円虹『ホトトギスの魅力(三)』

昭和三十二年という年は私にとって人生で最もしあわせな忘れ難い一年でありました。神戸商科大学を卒業し大日本紡績株式会社に入社出来た事。挫折しかけた恋愛が実を結んで婚約が成立した事。在学中にホトトギス巻頭という金的を射止めた事等であります。
二月の綿業俳句会の帰路、関圭草東洋紡社長の車の中で年尾先生から三月号の巻頭を知らされた時は本当に耳を疑いました。しかも、虚子先生の添削と聞いて天にも昇る気持が致しました。同乗されていた五十嵐播水先生は『句作雑話』に「添削のあと」と題して一文を草されました。

悴みてけふこの女醜さよ          中杉髏「(なかすぎたかよ)
(かじかみてきょうこのおんなみにくさよ)


原句は上五が「末枯れて」でした。私は、この「悴む」という季題で再度、巻頭に挑戦し六月号で

悴みて己のことのほか知らぬ        同
(かじかみておのれのことのほかしらぬ)


以下で夢を実現いたしました。八月の山中湖畔の稽古会で虚子選に入った

かのときのかの岩いかに土用波       同
(かのときのかのいわいかにどようなみ)

が十二月号の副巻頭。日紡豊橋工場で作業服姿を詠った、

婚約や芝にまろべば露まみれ        同
(こんやくやしばにまろべばつゆまみれ)


が翌三十三年三月号の副巻頭になりました。
ホトトギスの毎号末尾に虚子先生の「消息」という小文が載せられております。昭和三十二年一月号は第六十巻第一号で「ホトトギス還暦」という特集が組まれておりますが、この号の「消息」では選者の心得として「古い投句家を尊重することは忘れてはなりませんが、それと同時に新しい作家を見出して行くことは雑詠欄に活気を喚び起す第一だといふ事を忘れてはなりません。」と書かれています。また八月号には「この頃誌面になんとなく活気が萌しつゝあるように思います。別に表面に現れて斯く斯くの點がそうであると云うのではありませんが、只私の心にそんな感じがするのであります。私は心秘かに祝福して居ります。」と記され、さらに十月号では特に一頁を割いて「ホトトギスは稍々活気を呈しつゝあることを、この前消息に書いておきましたが、同感の意を表して来られた人々がありました。大岡龍男君を始めとして。」という書出しで八月の稽古会の雰囲気を佳しとされ、好ましい句会のあり方について言及されております。
「ホトトギス」は日本一古い雑誌で百年を越え千二百五十号に達しました。巨木とも巨人とも例えられましょう。その長寿の秘訣はこの絶えざる「新人の発見」という掘り起こし、創造、新陳代謝にあるものと思われます。四Sを始め、虚子先生の膝下から輩出された俳人は誠に雲の如き観があります。多種多様の個性の花園は、他に類例を見ません。その教えが年尾・汀子先生に受継がれ、日本伝統俳句協会の創設、日本のホトトギスから世界のホトトギスへの飛躍発展となってI・T時代の二十一世紀には一層の加速が見られることでありましょう。
「不易流行」、「古壺新酒」を念頭に一作、一作に精魂を傾けたいものです。


中杉髏「
(「円虹」ホトトギスの魅力(三)より)


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