2016年03月01日

光芒七句 〜「花の日」再び〜

いつまでも花のうしろにある日かな     大峯あきら
(いつまでもはなのうしろにあるひかな)


大峯あきら氏が第八句集『群生海(ぐんじょうかい)』で第五十二回毎日芸術賞と第二十六回詩歌文学館賞を受賞された平成二十三年の「晨(しん)」五月号の「光芒七句」欄に私は「花の日」という一文を書いた。それは「花の日も西に廻りしかと思ふ」という句に始まる七句でその中には平成二十二年の「晨」一月号の「光芒七句」で取り上げた「虫の夜の星空に浮く地球かな」や「日輪の燃ゆる音ある蕨かな」も含められている。

今回も大峯あきら氏が第九句集『短夜』で俳壇最高の賞とされる第四十九回蛇笏賞に併せて小野市詩歌文学賞を得られたことに因み「「花の日」再び」と題してその続きを書かせて頂くこととする。

あきら氏は花の吉野に程近い大淀町増口で生まれ育って来られた訳であるから「花」も「花の日」も平生見慣れた存在であることは申すまでもあるまい。ただそういう自然環境に加えて専立寺という浄土真宗の寺の住職を継がれ、また大学で宗教哲学を考究される一方、俳句創作に関わる詩的体験を重ねられて、「花」や「花の日」を単なる季節の景観に止どめず、宇宙の根源に関わる命の現れとして深い考察の対象とされて来られたのである。
掲出句は一見何の変哲もない花の景色に見えるかも知れないが、その真意は甚だ深いところに根差すものであることを知れば、この句の真価が判ろうというものである。「花」は春という季節を代表するものであり、我々人間と同様の命を持つものである。それは季節の移ろいとともに咲き散るものであり、その一瞬の現れは循環する永遠の時間と交叉している。
「いつまでも花のうしろにある日」とはそういう深奥な世界を象徴する言葉として捉えることが出来る。それは北九州市若松の浄土真宗本願寺派極楽寺の山門の傍に建てられたあきら氏の唯一の句碑に刻まれている第三句集『月読』の

花咲けば命一つということを
(はなさけばいのちひとつということを)


という句の内実と通い合うものがあるであろう。
思えば昔、「青」の創刊号に書かれた「季に関する一考察」以来、あきら氏の季に対する考察は一貫して深化し続けて来たように思われる。そしてそれを可能にしたものが実に俳句に依る詩的体験であったと云って過言ではあるまい。そして今も一句の創作、一句の鑑賞を経て論作ともに年々深化されつつあるように思われる。
「晨」創刊三十周年の記念講演の表題も「季節とことば」であったが、季を主題とする俳句は特にことばに命を削る詩の中の詩とでも言って良いように思う。句集『短夜』から数句を抽いてその例証を試みてみよう。

大木の静かになりてしぐれけり
(たいぼくのしずかになりてしぐれけり)


しぐれはひそかにしめやかにそして忍びがちに近づいて来るものである。大木はその気配をいち早く悟って静かに身を正しその時を待つ。そしてしぐれに濡れしぐれの風情をたのしむのである。

初日出てすこし止りて上るなり
(はつひでてすこしとまりてあがるなり)


初日は一気に大空へ駆け上るということはしない。それは万象に光を与えるという大事を前に一呼吸入れ万全の体勢を整えてから上り始める。その一瞬を「すこし止りて」と言い止めたのである。

鴉の子中仙道を歩きをり
(からすのこなかせんどうをあるきおり)


鴉の子が中仙道を歩いているというただそれだけのことが詠われている。しかし、この句には不思議な実感がある。それは「鴉の子」と「中仙道」ということばの持つ雰囲気がぴったり合致し合っているという点である。「東海道」や「山陽道」では、こうはいくまい。木曽であれ信濃であれ中仙道であれぱどこであっても「鴉の子」はいきいきと調和する。

藪入は古き峠を越えてゆく
(やぶいりわふるきとうげをこえてゆく)


藪入りとは古い季題である。奉公人をサラリーマンと考えれば現代にも通用するかもしれないが、他家へ嫁いだ子女の里帰りにも使われるようなのでことばとしてはまだ生きているのかも知れない。帰郷する者の心情が「古き峠を越える」に表わされている。この「藪入りは」という表現法はかっての「探梅は岩躍り越す水見たり」を想起させる。

昼ごろに一人通りし深雪かな
(ひるごろにひとりとおりしみゆきかな)


深い雪の積もった山国であろうか。午前中誰も通るものが無かったが、昼ごろになってやっと人が一人通って行ったという淋しい山村の風景である。私も、ここ北軽井沢へ妻と二人越して来て小さなバンガローに住んで百二十年ぶりの大雪を体験したが、軽井沢病院で脊柱管狭窄症の手術をしたこの冬はまさしくこのような日々であった。

短夜の雨音にとり巻かれたる
(みじかよのあまおとにとりまかれたる)


あきら氏には雨の句が意外と多い。国内、国外を問わず、氏の意識の中で雨もまた季節の循環と関りが深いものなのかも知れない。句集『短夜』の巻末に示された「短夜の雨音」に人々は寓意を期待するかも知れないがあきら氏にそういうものを求めても無理である。この「短夜の雨音」に示されているものは「命一つ」の顕示をひたすら享受するもの即ち詩人の「あるべき」かつ「ありのまま」の姿以外の何物でもない。
第七回小野市詩歌文学賞の受賞挨拶の中で端的に述べられている「私の俳句は社会性俳句とか人間探求俳句即ち現代俳句では無く芭蕉の詩的視点に立つ宇宙性俳句なのです」ということばの意味を今一度考えてみることである。

中杉髏「
(「晨」平成二十八年一月号より)


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2016年02月01日

〜六分儀〜 十一. 北軽井沢

北軽井沢は浅間山の北麓にある高原の町である。昔は軽井沢から草津を結ぶ草軽電鉄が走っていて、駅名が「地蔵川」から「北軽井沢」に改められたのは大正時代に法政大学関係者に依って大学村が開かれてからのことである。そこには岩波茂雄、野上弥生子、岸田国土等の著名人が住んだ別荘があり、その後も谷川俊太郎、大江健三郎等の別荘が加わった。「カルメン故郷に帰る」という日本初のカラー映画や「丘を越えて」という流行歌の舞台にされたのもここ北軽井沢であった。
私が此処に山荘を持つようになったのは妻の友人がたまたま北軽井沢の大地主の家に嫁いでいたからで、それは「白樺山荘」や「杣工房」を営むご主人の萩原氏に建てて貰ったものであった。とはいえ、会社勤めの身分では精々連休や盆休に利用するしか無かった。やがて老後はここでという夢を抱いたりもしたが、それも西明石のマンションに住むようになってからはトーンダウンしていった。

二十年以上住み慣れたマンションの「サバービアシティ」は新幹線の止まる西明石駅から徒歩五分と立地条件が良かった。二十一階建の二十階にある四LDKの我が家からは大阪湾に昇る朝日から瀬戸内海に沈む夕日までが見えた。阪神淡路大震災の際も震源地の北淡町がすぐそこに見えていたが活断層が神戸や六甲方面に向かって動いたため明石川以西の被害は軽微であった。同じ棟の十七階に住む息子は結婚後もそのまま住むことにしたので私達とは所謂スープの冷めない理想的な距離であった。その様子が一変したのは東日本大震災のあと息子が転勤により東京長期在住となったためである。娘は結婚後早くからずっと長崎に住んでいる。八十歳近い私達が西明石に居続けることは不都合に感じられた。この様な状況で私は俳句、妻は磁器絵付と自由に趣味を楽しんで来たのでそれぞれに持物は多かった。いずれ家の処分や持物の整理をするのに会社勤めの息子達には大きな負担を掛けることになる。それに私が脊柱管狭窄症のため歩行が困難になりつつあるという事情があった。

丁度、萩原氏の所有する千七百坪の「小鳥の森」には車椅子を必要とする客用に作られたバリアフリーのバンガローがあり、これを借りることに決めた。ブラジルを含めての十九回目の引っ越しであった。

椅子の上に秋が坐ってをりにけり      髏「(たかよ)
(いすのえにあきがすわっておりにけり)


書斎の物が梱包され持ち出されて机と椅子だけが残った。窓には秋日を浴びた小豆島が見えている。背凭れの高い細身のその椅子は妻から譲られたものであった。コーデュロイの赤い布地で、坐ると心地が良かった。しかし、永年愛用して来た椅子が所在なげに独りぽつねんとしているのは寂しかった。その椅子の上に私は、私でない何者かが坐っているような気がしていた。それが「秋」であるということを実感したとき、初めて俳句で追い求めて来た「実存」というものを見た思いがした。
十一月に山荘から移ったバンガローには小窓の付いたロフトがあり、妻は少女のように喜んだ。「小鳥の森」の周辺は紅葉が始まっており、初めの中は空を舞う落葉の渦に驚いたり、暖炉に焚く榾の火を楽しんだりしたものだ。

この村に未だ馴染まず日向ぼこ       髏「
(このむらにいまだなじまずひなたぼこ)


西明石に居た頃から患っていた脊柱管狭窄症が悪化して来て山道を歩くのが不自由になり軽井沢病院で診察を受けたところ放置出来ない状態であることが判った。二月には明治二十七年以来百二十年ぶりという大雪に見舞われ、背丈を超える積雪により三日間、一歩も外へ出られなくなった。二月下旬、私は最新設備の整った軽井沢病院に入院し整形外科専門の院長直々の手術の成功で彼岸の前日に退院することが出来た。
幸い無事生還出来たが、異常な寒さの冬を体験し、次の冬が上手く越せるか心配であった。妻や息子達の調べで山荘に近いヴィア北軽井沢エルウィングが見つかった。十三階建てのマンションの十一階で眺望が良く窓には浅間山が見え廊下からは草津白根山から日光連山へと続く山々が見晴るかせた。最上階に大浴場があり、ホテル併営なのでレストランやシャトルバスが利用出来るというメリットがあった。フロントもロビーも気に入り思い切ってそこに住むことにした。

北軽井沢で妻と二人の老後の生活が始まった。私は虚子の「極楽の文学」の追体験に夢中である。時折、時間を見つけては妻は明石へ磁器絵付の指導に、私は神戸へ淡水俳句会の指導に出掛けることにしている。
石田波郷の句から憧れを抱いた嬬恋村に近い北軽井沢に終の住処を決めることが出来たのは本当に幸せであった。

嬬恋に死すと思へば爽やかに        髏「
(つまこいにしすとおもえばさわやかに)




(平成二十七年二月「六分儀」11より)


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2015年03月01日

ばあこうど 〜去り行くか〜

淡路島の真上には冬の日が今日も何事もなく光り輝いている。
書斎の窓の正面は阪神・淡路大震災の震源地となった北淡町(ほくだんちょう)である。新幹線と在来線の交差する西明石駅のすぐ傍のマンションの二十階は物凄く揺れた。壁に掛かった浜田昇児(はまだしょうじ)の蘭の絵が壱回転しかねない程であった。勤め先の柏井紙業のビルはあのとき三宮のフラワーロードに横倒しになった。あれから早十三年。私は古稀(こき)を過ぎた自由の身だ。

五十年前、私は神戸商科大学の学生であった。卒業論文も仕上げ就職の方も大日本紡績に内定していたというのに煩悶(はんもん)の日々を送っていた。高校時代、美術部の一年後輩に意中の女性がいて、大学に入学した頃から文学書の紹介などの文通を続けていたが大学四回生になった夏、思い切って告白した。しかし彼女は応じなかった。
英文学教授で商大俳句会顧問として親しかった橋關ホ(はしかんせき)先生からは「諦めたらどうだ」と言われたが、とてもその気になれず、未練が断ち切れなかった。

末枯れてけふこの女醜さよ           隆世(たかよ)
(うらがれてけふこのおんなみにくさよ)


という句を作って忘れようと試みたりもした。
年が明けて卒業まで三ヶ月足らずになったとき、かねて大学を卒業する迄に「ホトトギス」の巻頭を得たいと念願していた私は、「欅(けやき)」同人の田淵阿喜津老(たぶちあきつ)からマン・ツー・マンの特訓を受けていた。若い頃、岡本綺堂(おかもときどう)に戯曲を、伊藤左千夫(いとうさちお)に短歌を学び、高浜虚子(たかはまきょし)に願い出て池内たけしに師事することになったというこの人物は私の夢を叶える為「一日百句」を課した。
その夜も全没(ぜんぼつ)を喰(く)った私は複雑な思いを抱いたまま須磨寺の大池のほとりで一本の枯木に凭れていた。ふと池の向こうを見ると、私と同じように枯木に凭れ物思いに耽(ふけ)っている男がいた。私より年は上のようだった。いったい何のためにこんな時間にそこにいるのか不思議に思った。どちらが私でどちらがその男なのか判らなくなり乍(なが)ら私はその男が帰る迄は動くまいと思った。痺れを切らしかけた頃、その男に動きが見えた。彼は枯木を離れてゆっくり池沿いに歩いて来て黙ったまま私の目の前を通り過ぎて行った。

いま行くが枯木に凭れゐし男
(いまゆくがかれきにもたれいしおとこ)

去り行くは枯木に凭れゐし男
(さりゆくはかれきにもたれいしおとこ)


というような句が出来た。私には「第三の男」のラストシーンが思い出された。
この句は池内たけし先生から

去り行くか枯木に凭れゐし男
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


と添削され三重丸を付けて阿喜津老の所へ返されて来た。
二月の綿業俳句会に出席して高浜年尾(たかはまとしお)、五十嵐播水(いがらしばんすい)という先生方と関圭草(せきけいそう)東洋紡社長の車に乗せられた私は、淀川の鉄橋に差掛ったころ突然、年尾先生から「ホトトギス」三月号の巻頭を知らされ驚愕した。さらにそれが虚子先生の添削であることが告げられた。

悴みてけふこの女醜さよ            隆世(たかよ)
(かじかみてけふこのおんなみにくさよ)


念願が叶った瞬間であった。播水先生はこの添削を「巨匠の一彫り」の神技と驚嘆された。私はこの「悴みて」という季題を用い渾身の思いで作った二句と「去り行くか」の句を「ホトトギス」に投じ、六月号で再び巻頭の栄冠を勝ち得たのであった。
「去り行くか」の句について「ホトトギス」七月号で深見けん二(ふかみけんじ)氏は“新しい心理描写”と言われ、年尾先生は“時間的の経過が面白く窺(うかが)はれる”と評された。「青」の六月号では、神田敏子(かんだとしこ)氏が「表現力」というエッセイの中で

乗鞍は凡そ七嶽霧月夜             たかし
(のりくらはおよそななだけきりづきよ)


と並べて

去り行くか枯木に凭れゐし男          隆世
(さりゆくかかれきにもたれいしおとこ)


を「本当に好い句です。青春の寂寥感(せきりょうかん)といふかオーヘンリーの短編を読む様なフェータルな雰囲気を漂はせてをります。この句こそまぎれもない真物(まもの)です。」と書かれた。
昨年「NHK俳句」十二月号で安原葉(やすはらよう)氏はこの句を紹介されて「物語の一場面を見ているような句」であり「余韻のある一句」と解説して下さった。

昭和三十二年の夏、私は山中湖の虚子山荘の稽古会に参加し虚子や立子(たつこ)や風生(ふうせい)や杞陽(きよう)といった人々と共に花野に立った。それこそ「極楽の文学」そのものであった。その後、四誌連合を初めとし「萬緑(ばんりょく)」などを「俳句遍歴」の末、再び「ホトトギス」の古巣へ戻った。
美術部の後輩であった彼女とは昭和三十四年十一月に結婚し、来年は金婚である。今は、私の傍らでせっせと磁器絵付の筆を楽しんでいるところだ。
冬の日はいつしか衰えを見せ、淡路島から小豆島を越えて西の海に傾きかけている

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中杉隆世

(「ばあこうど」平成二十年四月号より)




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