2015年09月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  三十. 秋風(あきかぜ)と 稲(いね)

平成二十四年十月の兼題は「秋風(あきかぜ)」と「稲(いね)」です。『古今集』秋の部の初めに、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」という藤原敏行朝臣の歌がありますが、秋は特に風に敏感になる季節のように思われます。

猿を聞く人捨子に秋の風いかに         芭蕉(ばしょう)
(さるをきくひとすてごにあきのかぜいかに)


蕉風漸く成熟を見せる『野晒紀行』の中の一句。秋風に泣く捨子の声を、哀猿の叫びに断腸の思いをする詩歌人達は如何に聞くであろうかと疑いながら「唯是天にして、汝の性の拙きを泣け。」と言って立ち去る芭蕉に俳人の非情さを感じます。しかし、本来の芭蕉は

塚も動け我泣こゑは秋の風
(つかもうごけわがなくこえはあきのかぜ)


のように何事にも感動し易い激情の持主であって、その後、「わび」「さび」の閑寂の境地を拓いたのは俳諧の非情精神に徹し、花鳥に化体した言葉で以って詩心を封じ込めたからでありましょう。現代では、同じ「秋風」であっても、感じ方や捉え方に時代を超えた違いがあるように思われます。例えば、人間探求派とされる中村草田男の

ふりかへる秋風さやぎ已にとほし        草田男(くさたお)
(ふりかえるあきかぜさやぎすでにとおし)


は、「秋風」そのものの実相を回想や郷愁と共に捉えたものであり、また、

軍隊の近づく音や秋風裡
(ぐんたいのちかづくおとやしゅうふうり)


は近づいてくる軍靴の響きから迫り来る時代への不安感が表されております。「秋風」を知的、感覚的、暗示的、象徴的に捉えるのが現代俳句の特性と言えるのでありましょう。

「稲」は柳田國男の所謂『海上の道』を通って島から島へと伝播され、梅雨など水稲栽培に適した日本の国土に定着し、やがてわが国に稲作を基とする農耕文化や「結」の思想を生むことになるのであります。俳句は特に稲作との関りが深く歳時記の大半は稲に関係するものとなっております。

中学生朝の眼鏡の稲に澄み           草田男
(ちゅうがくせいあさのめがねのいねにすみ)


第三句集『萬緑』の初めに載せられたこの句は昭和十四年の作であります。戦前の中学には「園芸」という学科があり菜園や田圃がありました。眼鏡を掛けた中学生というのはいかにも汚れを知らない、真面目で利発そうな少年が想起されます。その眼鏡が清々しい朝の稲を映して澄んでいるというのです。いかにもフレッシュな感じが致します。

稲舟の突き放されて進みくる          素十(すじゅう)
(いなぶねのつきはなされてすすみくる)


第一句集『初鴉』所収。茨城県山王村出身の高野素十は自ら“百姓の血筋”と云っておりますが、その作品は清澄高雅で客観写生の第一人者と言っても過言ではありません。彼の作品の多くは田園風景を主題とするものですが、純粋客観写生に徹した結果、宇宙自然の力がそのままに表現されるようになっているのであります。 

     
(平成二十四年十月六日 葉月会「道草」より)


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2014年09月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  十八. 林檎(りんご)と 秋深し(あきふかし)

平成二十三年十月の兼題は「林檎(りんご)」と「秋深し(あきふかし)」に致しました。

我が恋は林檎の如く美しき             富女(とみじょ)
(わがこいはりんごのごとくうつくしき)


これは無名(むめい)の新人の句であります。虚子編新歳時記(きょしへんしんさいじき)の「林檎(りんご)」の例句(れいく)の一つに掲(かか)げられております。「まだあげ初(そ)めし前髪(まえがみ)の林檎(りんご)のもとに見えしとき・・・」というあの島崎藤村(しまざきとうそん)の『初恋(はつこい)』の詩(し)に詠(うた)われているような可憐な少女の姿が想像され、「林檎の如く」という率直な表現から乙女(おとめ)の一途で初々しい恋心が感じ取れます。

林檎食ふ間にも城去り城来る            いはほ(いわお)
(りんごくうまにもしろさりしろきたる)


京大付属病院長の松尾いはほ(まつおいわお)先生がドイツに留学されていた時に作られた句で「ライン河を下(くだ)る」という前書(まえがき)があります。「林檎」の新鮮な食感と次々と現れ出る中世の幾多(いくた)の城からダイナミックなライン下りの様子がリアルに伝わって参ります。
「林檎」はまた旧約聖書(きゅうやくせいしょ)の「創世記(そうせいき)」に出てくるエデンの園(その)の禁断(きんだん)の木の実(このみ)“善悪(ぜんあく)の知識の実”とされております。泰西名画(たいせいめいが)には「智の蛇(ちのへび)」に唆(そそのか)されてこの禁断の木の実を食べた裸のイブとアダムが主なる神から楽園を追放(ついほう)される有様(ありさま)が数多く描かれております。

空は太初の青さ妻より林檎うく           草田男(くさたお)
(そらはたいしょのあおさつまよりりんごうく)


敗戦の翌年の作で「居所(きょしょ)を失うところとなり、勤先(つとめさき)の学校の寮の一室に家族と共に生活す」という前書きのある句。真っ青な空に太初(たいしょ)を想い、真っ赤な林檎に人間愛の原型を感じた、その意識の中には旧約聖書の「創世記」の連想があったと思います。「古代(こだい)の族長(ぞくちょう)」や「保護者(ほごしゃ)ヨゼフ」に倣(なら)う、いかにも草田男らしい作品であると言えましょう。

「秋深し」という季題は秋の季題の中でも最も深く心に響く季題のように思われます。

秋深き隣は何をする人ぞ              芭蕉(ばしょう)
(あきふかきとなりはなにをするひとぞ)


『笈日記(おいにっき)』の中の一句。秋の夜長(よなが)、人は静かに読書したり、いろいろな思索(しさく)に耽(ふけ)るものであります。そうした中、ふと隣人(りんじん)の生活が気懸(きがか)りになったのでありましょうか。他者の生業(なりわい)を慮(おもんばか)ることにより一層人間同士の孤独感(こどくかん)が身に沁(し)み、親愛(しんあい)の情が湧(わ)いて来たのでありましょう。「秋深き」という季題、「ぞ」という係助詞(かかりじょし)が特に余韻余情(よいんよじょう)を深くしております。

深秋といふことのあり人も亦            虚子(きょし)
(しんしゅうということのありひともまた)


『虚子百句(きょしひゃっく)』によれば、昭和二十年十月二十七日、虚子七十一歳の作とされております。終戦直後の秋、さまざまな事情や憂(うれ)いのある中、感情を表(おもて)に表(あらわ)さず泰然(たいぜん)と俳句を作る人に感動と敬意(けいい)を覚えたという句意(くい)であります。又、すでにそういう心境(しんきょう)にある作者自身の自信に満ちた姿とも受け取れます。成熟(せいじゅく)の秋には枯淡(こたん)の冬が近づいております。そういう移(うつ)ろい易(やす)く深まり行(ゆ)く自然の姿を人生に譬(たと)えたものと思います。深秋の如き人物とは言い知れぬ大きな存在に思われます。


(平成二十三年十月九日 葉月会「道草」より)


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2013年09月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  六. 秋晴(あきばれ)と 菌(きのこ)

十月の季題は、「秋晴(あきばれ)」と「菌(きのこ)」です。

「秋晴」と云(い)いますと、すぐ私の頭に浮かぶのは

秋晴や橋よりつゞく山の道              草田男(くさたお)
(あきばれやはしよりつづくやまのみち)


という句であります。加藤楸邨(かとうしゅうそん)や石田波郷(いしだはきょう)と共に人間探求派(にんげんたんきゅうは)と呼ばれ、難解・腸詰俳句(ちょうづめはいく)と批判(ひはん)された中村草田男(なかむらくさたお)も、初心(しょしん)の頃はこんな平易(へいい)で素直な句を作っておりました。

この句は第一句集『長子(ちょうし)』の秋の部に出て参ります。「橋」が村里(むらざと)との距(へだ)たりを、「つゞく」が山路(やまみち)を高みへ辿(たど)る作者の立ち位置の変化を表しており、読者にさまざまに連想させる余情(よじょう)の深い句であります。虚子門(きょしもん)に入り、東大俳句会で法医学教室の高野素十(たかのすじゅう)と吟行(ぎんこう)を重ね、写生の基礎を学んだ成果と言うべきでありましょう。

秋晴や水平線に神の指                素十(すじゅう)
(あきばれやすいへいせんにかみのゆび)


高野素十は昭和三十八、九年とペルーや佐藤念腹(さとうねんぷく)のいるブラジルへ何回か旅しておりますが、この句は昭和三十九年五月三日、リオデジャネイロのグァナバラ湾のTAKUETA島(タクエタとう)へ船で渡った際に作られたものであります。「神の指は山の名、一本の指を空に向けたる形なり。」という自註(じちゅう)がありますが、真青な空と海の間の水平線上に一本の「神の指」が突き出している光景は何か神秘的な深いものを象徴的に言い表しているような感じがいたします。昭和四十年から五年程、ブラジルで海外勤務の体験のある私には、頂上にキリスト像のあるポン・デ・アスーカのような山が想像されます。

もう一つ心に残る「秋晴」の句は野見山朱鳥(のみやまあすか)の

雲海の上の大秋晴に出づ               朱鳥(あすか)
(うんかいのうえのおおあきばれにいず)


という句です。これは、昭和三十八年九月、十七日間に亘(わた)った旅で、四誌連合(よんしれんごう)の福田蓼汀(ふくだりょうてい)、本郷昭雄(ほんごうあきお)らと乗鞍岳(のりくらだけ)に登った時の作品です。一泊した朝、山頂で見た絶景をこのように表現したのでしょう。興奮し躍動(やくどう)する作者の魂のよろこびが目に見えるようであります。

爛々と昼の星見え菌生え               虚子(きょし)
(らんらんとひるのほしみえきのこはえ)


昭和二十二年十月十四日、虚子七十二歳の時の作で「十月十四日、長野俳人別れの為に大挙(たいきょ)し来る。小諸山廬(こもろさんろ)」の詞書(ことばがき)があり、稲畑汀子(いなはたていこ)著(ちょ)『虚子百句(きょしひゃっく)』では、「この句はもちろん虚子自身が昼の星や菌が生えているところを見たのではない。つまり嘱目(しょくもく)の写生句(しゃせいく)ではない。また一俳人からの伝聞を句にしたものでもない。そんなことではこの句に秘められた神秘な力が解けない。虚子は一俳人の話に感興(かんきょう)を動かされて、いや感興などという生易(なまやさ)しいものではなく、インスピレーションを得(え)て一気に頭の中で壮大(そうだい)な宇宙を作り上げたのではないだろうか。」と云(い)い、「この句は信濃(しなの)の国に対する虚子の万感(ばんかん)を込めた別れの歌であり、最高の信濃の国の誉(ほ)め歌なのである。」という見事な鑑賞(かんしょう)がなされております。この評言(ひょうげん)に付け加えるものは何もあません。


(平成二十二年十月十一日 葉月会「道草」より)



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ラベル:俳句 虚子
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