松本たかしは病身ながら体調の良い時は長途の旅に出掛け集中して大作を発表致しました。それは物見遊山とは異なり一句を得んがための悲壮感漂うもので精魂込めて自然と対峙する真剣勝負さながらのものでありました。昭和二十八年十月、たかし一行が高知を朝発って十時間余り自動車で五十粁の行程を疾駆して足摺岬に着いた時は日は既に没し目の前には漁り火の凄まじい光景が広がっておりました。宵闇迫る断崖上で作者は次第に気分を昂揚させながら写生を始め徐々に揺曳する幻想の世界へと想念を拡げ深めて鯖火に集中し、遂にこの不朽の名吟を得るに至るのであります。
岬に彳つ我を囲みて鯖火燃ゆ たかし
(さきにたつわれをかこみてさばびもゆ)
漁り火の長夜の宴岬を囲み
(いさりびのちょうやのうたげさきをかこみ)
海中に都ありとぞと鯖火もゆ
(わだなかにみやこありとぞさばびもゆ)
漁り火の海の都も夜長かな
(いさりびのわだのみやこもよながかな)
鯖の火を遠の都と憧るる
(さばのひをとおのみやことあくがるる)
「海の都」の連想は「平家物語」に由来する謡曲と演能の素養があったためと言えるでありましょう。また、漁り火が鯖火であったことも重要で、青緑色で不思議な唐草模様のある鯖であればこそ、その闇に幽玄の味が加わり海の都の幻影が生きるのであって、仮に若しこれが「烏賊火」であったとすればとてもこの壮大で奥行の深い時空の表現は無理であったろうと思われます。
麦秋の中なるが悲し聖廃墟 秋櫻子(しゅうおうし)
(ばくしゅうのなかなるがかなしせいはいきょ)
堂崩れ麦秋の天藍ただよふ
(どうくずればくしゅうのてんあいただよう)
残る壁裂けて蒲公英の絮飛べる
(のこるかべさけてたんぽぽのわたとべる)
天使像くだけて初夏の蝶群れをり
(てんしぞうくだけてしょかのちょうむれおり)
鐘楼落ち麦秋に鐘を残しける
(しゅろうおちばくしゅうにかねをのこしける)
昭和二十七年、水原秋櫻子は医師としての仕事を離れ、俳句に専心することを決意し、九州、四国、中国、紀伊へと積極的に旅吟を志しました。その第十一句集『残鐘(ざんしょう)』には「軽衣旅情」と題する百二十七句の大作が収められておりますが、その中でもこの「浦上天主堂」の五句は秀抜で秋櫻子俳句の方法論が追い詰めた一典型と迄されております。当時は未だ、原子爆弾を被爆し廃墟となったままの状態で隣に木造の仮聖堂が建てられているだけでありました。この廃墟の前に立った時の言い知れぬ悲しみが秋櫻子の独特の表現技巧と美的イメージに依って見事に再現、昇華、詠歎されているのであります。今、平和を訴えて世界中に持回られている無原罪の聖母「被爆マリア」の真っ黒焦げの顔は、当時は北海道の修道院の祭壇に在り、そこにはありませんでした。
(平成二十五年五月二日 葉月会「道草」より)

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