2016年01月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  三十四. 春寒(はるさむ)と 猫の恋(ねこのこい)

平成二十五年二月の兼題は「春寒」と「猫の恋」です。
「春寒」と言えば、私には忘れ難い二つの「字余り」の添削の思い出があります。一つは第一句集『石炎(せきえん)』の中の、

春寒の非常階段地には触れず          髏「(たかよ)
(はるさむのひじょうかいだんちにわふれず)


という句です。日紡で初めて本社の宿直をした時のことです。通用門近くの社屋の壁に非常用の外階段が懸かっており、それは地上寸前のところで途切れておりました。それを面白いと感じた私はそのまま「地に触れず」と表現したのですが、波多野爽波(はたのそうは)に「は」の一字を加えることを奨められ、「字余り」になっても一呼吸「間」を置く事で却って句が生きるということを知りました。後にこの句は無季俳人の林田紀音夫(はやしだきねお)から好評されました。
もう一つは第二句集『嬬恋(つまこい)』所収の

春寒の機械化人間チャップリン         同
(はるさむのきかいかにんげんちゃっぷりん)


という句です。映画「モダン・タイムス」の主役チャップリンの滑稽な演技に、機械文明によって人間性を失っていく現代社会への風刺を感じ、試しに「機械人間」という表現で『萬緑(ばんりょく)』へ投句したのですが、選者の中村草田男(なかむらくさたお)はこれを「機械化人間」と添削致しました。改めて草田男の持つ言語感覚の鋭さと厳しさを感じ取った瞬間でありました。

執念くも春寒き日の続きけり          虚子(きょし)
(しゅうねくもはるさむきひのつづきけり)


『六百五十句』に収められたこの句は、昭和二十四年四月二日作です。四月の初めまで「春寒」が続いていたためか「執念深い」とか「しつこい」という意味の「しゅうねくも」という言葉に春を待つ思いの強さが感じられます。「春寒」という季題には「余寒」とは異なりいつまでも到来しない春への苛立ちがあるように思われます。

恋猫の恋する猫で押し通す           耕衣(こうい)
(こいねこのこいするねこでおしとおす)


「恋猫は恋する猫という本性のままその生を全うすれば良いのだ。」という句意でありましょうか。加古川の俳人、永田耕衣は「琴(リラ)座」の主宰ですが、自己と対象とを自由に変換し、自然を諧謔的な意外性としてとらえるという一風変った個性の持主でした。東洋的無を俳句の根源と考え、季を超えて「無」や「空」を探求致しました。一元化を目指す点では高野素十(たかのすじゅう)に、「深」を求めるところは高浜虚子に似ていますが、観念的なのが難点です。

猫の恋後夜かけて父の墓標書く         草田男(くさたお)
(ねこのこいごやかけてちちのぼひょうかく)


第一句集『長子』春の部所収の句です。草田男の父修は外交官で外地を転々とした後、大正十五年五十三歳で急逝致しました。しかし、墓は草田男が大学を卒業して教職に就く迄、十年間仮墓標のままでした。この句は、恋に狂う猫の嬌声に悩まされながら、夜を徹して明け方近くまで父の墓標を太字で墨書している三十代半ばの独身男である自分をユーモラスに客観描写している処が近代的かつ新鮮であります。

     
(平成二十五年二月九日 葉月会「道草」より)


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2015年01月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  二十二. 薄氷(うすごおり)と 猫柳(ねこやなぎ)

今年(平成二十四年)の二月の兼題は「薄氷(うすごおり)」と「猫柳(ねこやなぎ)」に致しました。
「薄氷」と言えば、すぐ想起(そうき)されるのが高野素十(たかのすじゅう)の第一句集『初鴉(はつがらす)』の中の一句、

泡のびて一動きしぬ薄氷             素十(すじゅう)
(あわのびてひとうごきしぬうすごおり)


であります。これは、じっと長い間薄氷を見つめていてその薄氷の下の泡がふとのびた一瞬の変化を「一動きしぬ」という言葉で捉えて大自然そのものの生命感まで表現し得たものであります。このように宇宙の一端を叙(じょ)して宇宙全体の力まで表現する高野素十の俳句は「俳句の原型」とも「純粋客観写生(じゅんすいきゃっかんしゃせい)」とも言われており、その自然に対する敬虔(けいけん)な態度は俳句を志す誰もが学ぶべきものと考えます。

眠りては時を失ふ薄氷             朱鳥(あすか)
(ねむりてはときをうしなううすごおり)


「ホトトギス」の奇才(きさい)野見山朱鳥(のみやまあすか)は昭和四十五年二月二十六日、肝硬変のため五十二歳の若さで亡くなりました。この句は、腹水のため急遽飯塚病院に入院し昏睡状態に陥るまでの間に作られ、後にひふみ夫人に依(よ)って纏(まと)められた第六句集『愁絶(しゅうぜつ)』の最後に「遺句帖抄(いくちょうしょう)」として掲げられている中の一句であります。夢うつつの間、朱鳥はずっと俳句を追い続けていたことでありましょう。「時を失ふ」という一語に「死よりも詩」を求めた詩人の魂が感じられます。この場合の「薄氷」は眼前(がんぜん)に凝視されたそれではなく、回想の中の「薄氷」のイメージが病弱であった自らの人生の象徴となって結晶したものと言えます。

水辺に自生する銀鼠色の「猫柳」も早春の詩情(しじょう)をそそる季物であります。

猫柳四五歩離れて暮れてをり          素十(すじゅう)
(ねこやなぎしごほはなれてくれており)


これは第二句集『雪片(せっぺん)』に収められた素十の代表作の一つであります。
「無心の眼前(がんぜん)に風景が去来(きょらい)する。さうして五分−十分−二十分。眺めてゐる中にやうやく心の内に興趣(きょうしゅ)と云ったものが湧いてくる。その興趣を尚心から離さずに捉へて、尚見つめて居る内にはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と語った、その素十が一日眺め尽くした挙句、猫柳に別れを告げようとして振り返ったその瞬間に出来たという句であります。

猫柳湖畔の春はとゝのはず           播水(ばんすい)
(ねこやなぎこはんのはるはととのわず)


これは五十嵐播水(いがらしばんすい)の第二句集『月魄(げっぱく)』の昭和九年の作であります。『俳句になるまで』(新樹社)の春の部の冒頭に「膳所(ぜぜ)の監獄の塀が湖べりにありました。見ると猫柳がそこにもここにもありました。然(しか)しその花苞(はなつと)は赭(あか)くまだ銀色ではありませんでした。」とあり、雪しまきや沖に舞う群千鳥(むれちどり)の有様などが記されております。そんな事は一切捨象(いっさいしゃしょう)して「湖畔の春はとゝのはず」とのみ表現したところが見事です。播水は京大三高俳句会で草城(そうじょう)や誓子(せいし)と共に句作をしましたが、二人とは違い、虚子の訓えを良く守って卒の無い写生で平明(へいめい)かつ滋味豊かな近代感覚の抒情句(じょじょうく)を数多く残しました。


(平成二十四年二月十一日 葉月会「道草」より)


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2014年01月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  十. 梅(うめ)と 山焼く(やまやく)

二月の兼題(けんだい)は「梅(うめ)」と「山焼く(やまやく)」に致しました。
早春、百花(ひゃっか)に魁(さきが)けて咲く「梅」はその気品や清香(せいこう)から清廉高潔(せいれんこうけつ)な人格が連想され古来和漢(こらいわかん)の詩人(しじん)に愛賞(あいしょう)されて参りました。
それだけに一月頃より早咲きの梅を探(たず)ねて山野に出掛ける探梅(たんばい)は春先の格好(かっこう)の行事として楽しまれているのです。

探梅や枝のさきなる梅の花                素十(すじゅう)
(たんばいやえだのさきなるうめのはな)


「大まかに梅の花と叙(じょ)して却(かえ)って枝の先に一輪の梅を見出した心持(こころもち)が瞭(は)っきりと出て居る。」と虚子(きょし)が評していますように枝先の梅を見付けて喜ぶ人々の表情と共に枝先の梅をズームアップして逆に人々を枝の間から見下ろすという構図が想像されます。視点を梅の側に置くことは花鳥(かちょう)の側から作者を見るという斬新(ざんしん)な客観写生(きゃっかんしゃせい)の手法(しゅほう)であると申せます。

紅梅の紅の通へる幹ならん                虚子(きょし)
(こうばいのこうのかよえるみきならん)


紅梅が紅梅であるのは紅梅を紅梅たらしめる「紅(こう)のいのち」がその幹を通っているからだという句意であります。稲畑汀子(いなはたていこ)の『虚子百句(きょしひゃっく)』ではそれを虚子(きょし)のアニミズム的な眼によるものと云(い)い、作者の虚子が紅梅に語りかけているようだとも云っております。

白梅のあと紅梅の深空あり                龍太(りゅうた)
(はくばいのあとこうばいのみそらあり)


白梅がひとしきり咲き誇ったあと紅梅の盛りがやって来て空の色も一層(いっそう)深味(ふかみ)を増すようになったという趣意(しゅい)であります。甲州では伊豆あたりと違いこのような咲き方になるようです。龍太には「青空(あおぞら)」「蒼空(あおぞら)」という表現が多いのですがこの「深空(みそら)」は余韻(よいん)の深い素晴らしい造語(ぞうご)です。茅舎(ぼうしゃ)もこれと良く似た「御空(みそら)」「虚空(こくう)」という表現があります。

「山焼く」という季題には「山火」という傍題(ぼうだい)があり、「野焼く」にも「野火」という傍題があります。野を焼くのは害虫駆除(がいちゅうくじょ)のため、山を焼くのは下草(したくさ)を除(のぞ)くためと云われております。どうやら「山火」と「山火事」とは異(こと)なるようであります。

山焼く火檜原に来ればまのあたり             秋桜子(しゅうおうし)
(やまやくひひばらにくればまのあたり)


雑木林を抜けて檜原(ひばら)の疎林(そりん)に出たら山を焼く火がまのあたりに見えたという迫真性(はくしんせい)のある印象鮮明(いんしょうせんめい)な秋桜子(しゅうおうし)らしい作品です。大正十五年二月の「ホトトギス」の雑詠句評会(ざつえいくひょうかい)では誓子(せいし)の問(とい)に対し、秋桜子は自(みずか)ら曽って(かつて)飛騨山中(ひださんちゅう)で見かけた経験を基(もと)に創造したものであると告白しております。虚子はそれが譬(たと)え作者の主観に依(よ)って創造された世界であってもリアリティのある限り、現実の世界のものとして鑑賞(かんしょう)し得ると発言致しております。

柔かき草柔かき炎上げ                 素十(すじゅう)
(やわらかきくさやわらかきほのおあげ)


句集『雪片(せっぺん)』に収録された野焼の句であります。ここに描かれているのは「草」と「炎」だけでありますが、柔かい草が柔かい炎をちろちろと上げて燃えているという情景(じょうけい)がまざまざと目に見えるように客観写生されております。



(平成二十三年二月七日 葉月会「道草」より)




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