去年今年貫く棒の如きもの 虚子(きょし)
(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)
この句は、高浜虚子の代表句であると共に現代俳句が到達し得た最高傑作であると云っても過言ではありません。それは芭蕉の時代には無かった詩境であり、現代のどの俳句作家も到達し得なかった世界であると云えるからであります。『六百五十句』に収められたこの句は昭和二十五年十二月二十日、新年のラジオ放送に録音するため鎌倉虚子庵で開かれた句会に出句されたものであります。後日、この句が鎌倉駅に掲げられているのを見たノーベル賞作家の川端康成が「小説も及ばない」と絶賛したという逸話も残されております。
「去年今年」という季題は元旦零時を挟んで「年去り年来る」感慨を極端に表したものでありますが、この句の場合はもっと深く永劫の「過去」から永劫の「未来」へと流れ続ける時間を「棒」に譬えて言い表しているのです。「花鳥諷詠」は宇宙生命を写し取るものですが、この句は「宇宙そのもの」、「時間そのもの」を表現しております。虚子の言葉はときに矛盾しときに非合理に聞える場合もありますが、詩の真実を捉えていることに変りは無く「季題」への拘りもすぐれた句が生まれることに依って新たな解釈や発見が加わり、その内容を大きく変えて行くことが出来るのを知悉しているからに他なりません。
悴める手を暖かき手の包む 虚子
(かじかめるてをあたたかきてのつつむ)
虚子は「悴む」という季題で多くの作品を作っておりますが、中でも私が評価したいと思うのはこの句であります。ところが、この句は汀子編『新歳時記』の中の例句に揚げられているのみで岩波文庫の『虚子五句集』にも朝日文庫の『高浜虚子集』にも掲載されておりません。「悴める手」を「暖かき手」が包んでいるだけで深い情感が伝わります。
「悴む」という季題は私にとり特別な意味を持つものでありまして、私が神戸商科大学在学中に或女性に失恋して自棄的に投句した
末枯れてけふこの女醜さよ 髏「(たかよ)
(うらがれてきょうこのおんなみにくさよ)
という句が虚子先生の目に止まり、上五を
悴みてけふこの女醜さよ
(かじかみてきょうこのおんなみにくさよ)
と添削されて昭和三十二年の「ホトトギス」三月号の巻頭を授けられました。その「悴む」という季題を使って今度は意識して巻頭にチャレンジした結果、
悴みて己のことのほか知らぬ 髏「
(かじかみておのれのことのほかしらぬ)
という句で望み通り同じ年の六月号の巻頭を得たのでありました。この句は「悴む」という季題を通して私自身の中にも存在する人間一般のエゴイズムを抉り出そうとしたものであります。山口青邨(やまぐちせいそん)は私の俳句をドライであると評しました。
(平成二十五年一月六日 葉月会「道草」より)

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