2015年12月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  三十三. 去年今年(こぞことし)と 悴む(かじかむ)

平成二十五年一月の兼題は「去年今年」と「悴む」に致しました。

去年今年貫く棒の如きもの           虚子(きょし)
(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)


この句は、高浜虚子の代表句であると共に現代俳句が到達し得た最高傑作であると云っても過言ではありません。それは芭蕉の時代には無かった詩境であり、現代のどの俳句作家も到達し得なかった世界であると云えるからであります。『六百五十句』に収められたこの句は昭和二十五年十二月二十日、新年のラジオ放送に録音するため鎌倉虚子庵で開かれた句会に出句されたものであります。後日、この句が鎌倉駅に掲げられているのを見たノーベル賞作家の川端康成が「小説も及ばない」と絶賛したという逸話も残されております。
「去年今年」という季題は元旦零時を挟んで「年去り年来る」感慨を極端に表したものでありますが、この句の場合はもっと深く永劫の「過去」から永劫の「未来」へと流れ続ける時間を「棒」に譬えて言い表しているのです。「花鳥諷詠」は宇宙生命を写し取るものですが、この句は「宇宙そのもの」、「時間そのもの」を表現しております。虚子の言葉はときに矛盾しときに非合理に聞える場合もありますが、詩の真実を捉えていることに変りは無く「季題」への拘りもすぐれた句が生まれることに依って新たな解釈や発見が加わり、その内容を大きく変えて行くことが出来るのを知悉しているからに他なりません。

悴める手を暖かき手の包む           虚子
(かじかめるてをあたたかきてのつつむ)


虚子は「悴む」という季題で多くの作品を作っておりますが、中でも私が評価したいと思うのはこの句であります。ところが、この句は汀子編『新歳時記』の中の例句に揚げられているのみで岩波文庫の『虚子五句集』にも朝日文庫の『高浜虚子集』にも掲載されておりません。「悴める手」を「暖かき手」が包んでいるだけで深い情感が伝わります。
「悴む」という季題は私にとり特別な意味を持つものでありまして、私が神戸商科大学在学中に或女性に失恋して自棄的に投句した

末枯れてけふこの女醜さよ           髏「(たかよ)
(うらがれてきょうこのおんなみにくさよ)


という句が虚子先生の目に止まり、上五を

悴みてけふこの女醜さよ
(かじかみてきょうこのおんなみにくさよ)


と添削されて昭和三十二年の「ホトトギス」三月号の巻頭を授けられました。その「悴む」という季題を使って今度は意識して巻頭にチャレンジした結果、

悴みて己のことのほか知らぬ          髏「
(かじかみておのれのことのほかしらぬ)


という句で望み通り同じ年の六月号の巻頭を得たのでありました。この句は「悴む」という季題を通して私自身の中にも存在する人間一般のエゴイズムを抉り出そうとしたものであります。山口青邨(やまぐちせいそん)は私の俳句をドライであると評しました。

     
(平成二十五年一月六日 葉月会「道草」より)


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2014年12月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  二十一. 雪(ゆき)と 龍の玉(りゅうのたま)

明けましてお目出度うございます。辰年の今年(平成二十四年)は深淵(しんえん)を出て天心(てんしん)を目指す昇竜(しょうりゅう)のような年になって欲しいものです。今年の一月の兼題は「雪」と「龍の玉」です。
「雪」は「雪・月・花」と讃えられるように冬を代表する美の象徴であります。

雪の朝二の字二の字の下駄の跡         捨女(すてじょ)
(ゆきのあさにのじにのじのげたのあと)

是がまあつひの栖か雪五尺           一茶(いっさ)
(これがまあついのすみかかゆきごしゃく)

などは古くから良く知られた句ですが、明治の俳句革新以降では

いくたびも雪の深さを尋ねけり         子規(しき)
(いくたびもゆきのふかさをたずねけり)

が特に有名です。『子規歳時(しきさいじ)』(越智二良著)では明治二十九年一月二十一日の作となっており、喀血(かっけつ)して病臥(びょうが)の身となった子規の心境が思い遣(や)られます。その他、

雪片のつれ立ちてくる深空かな         素十(すじゅう)
(せっぺんのつれだちてくるみそらかな)

降る雪や明治は遠くなりにけり         草田男(くさたお)
(ふるゆきやめいじはとおくなりにけり)

深雪道来し方行方相似たり           同
(みゆきみち こしかたゆくえ あいにたり)

雪はしづかにゆたかにはやし屍室        波郷(はきょう)
(ゆきはしずかにゆたかにはやしかばねしつ)

吹雪ても吹雪ても北海道の子よ         もりゑ(もりえ)
(ふぶきてもふぶきてもほっかいどうのこよ)

雪を来し足跡のある産屋かな          朱鳥(あすか)
(ゆきをきしあしあとのあるうぶやかな)

など皆それぞれに素晴らしく私の愛唱(あいしょう)しやまない諸作であります。今回は解説は行わず、皆さんにじっくりと味わっていただき、後刻感想を聞かせて頂きたいと思います。


「龍の玉」では

龍の玉深く蔵すといふことを          虚子(きょし)
(りゅうのたまふかくぞうすということを)

という句を推奨いたしたいと思います。これは「深は新なり(しんはしんなり)」と言った虚子の信念をそのまま俳句にしたような作品であります。句集『五百五十句(ごひゃくごじゅっく)』の昭和十四年の作品で、一月九日、丸ビル集会室であった笹鳴会に出句されたものです。「龍の玉」は「龍の髯の実」とも「蛇の髯の実」とも言い、旧家の軒下や庭隅などに植えられ深々と濃緑の葉を茂らせていて幾つかは辺りに落ち転がっておりますが、多くは髯の奥に隠れております。それは真に優れたものは玉の光を人前に現さず深く蔵しているものだという句意に思われます。

蛇の髯に実のなってゐし子供かな        草田男(くさたお)
(じゃのひげにみのなっていしこどもかな)

この句は虚子編『新歳時記(しんさいじき)』の「龍の玉」の例句に掲(かか)げられているものであります。蛇の髯になっている青い実を不思議そうに指差し訴えかける無邪気で小さな子供の可愛い表情が目に浮かんで参ります。草田男の処女句集『長子(ちょうし)』では、この句は「夏」の部にあって「冬」の部には載っておりません。たまたま夏に「蛇の髯の実」を見たのか或いは誤って「夏」に分類したのか、これは一つの謎であります。

(平成二十四年一月七日 葉月会「道草」より)


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2013年12月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  九. 初笑(はつわらい)と 雪嶺(せつれい)

平成二十三年初句会の季題は「初笑(はつわらい)」と「雪嶺(せつれい)」にさせて戴きました。
「笑う門には福来る(わらうかどにはふくきたる)」という諺(ことわざ)がありますように「笑う」ことは幸福(こうふく)の原点(げんてん)と申せます。
それが、「初笑」となりますと更にお正月の御目出度(おめでた)い雰囲気が加わります。

口あけて腹の底まで初笑い                 虚子(きょし)
(くちあけてはらのそこまではつわらい)


これは豪快(ごうかい)な屈託(くったく)の無い「初笑」です。思わず一緒になって笑いたくなるような明るさがあります。

初笑深く蔵してほのかなる                 虚子(きょし)
(はつわらいふかくぞうしてほのかなる)


こちらは奥ゆかしく淑(しと)やかな「初笑」です。
人の内面は表情や態度に表れます。それをすかさず捉(とら)えてこのように的確(てきかく)に表現出来るのは客観写生(きゃっかんしゃせい)の賜物(たまもの)と言えます。俳句を「極楽(ごくらく)の文学」と唱(とな)えた虚子に「初笑」の句が多いのも尤(もっと)もなことと頷(うなず)かれます。

「雪嶺(せつれい)」は独立した季題ではありませんが、「雪嶺」を季題とした名作が沢山あることも事実です。虚子編新歳時記(きょしへんしんさいじき)では「冬の山」の中で「襞(ひだ)の深い山々に雪嶺が打重(うちかさ)なってゐ(い)る遠山(とおやま)などが思ひ(い)浮かぶ」という説明がありますが、傍題(ぼうだい)としては扱われておりません。
ただ、一月の「雪」の例句の中に

雪嶺に汽車あらはれてやゝ久し               汀女(ていじょ)
(せつれいにきしゃあらわれてややひさし)


があり、雪の一景(いっけい)として認めているものと思われます。
「雪嶺」は、松本たかし句集『石魂(せっこん)』の中に多くの作例があります。

雪嶺に三日月の 匕首飛べりけり               たかし
(せつれいにみかづきのひしゅとべりけり)

蒼天の彼の雪嶺の鎌尾根よ
(そうてんのかのせつれいのかまおねよ)


たかしは「雪嶺」という厳しいイメージと緊張感ある言葉の響きを好んだのでしょう。

野の一樹より雪嶺へ道はじまる               朱鳥(あすか)
(ののいちじゅよりせつれいへみちはじまる)


は朱鳥の第三句集『荊冠(けいかん)』に収録されており、芸術の理想を「雪嶺」で象徴(しょうちょう)しそれを目指す作家の真摯(しんし)な姿勢を感じさせてくれる私の大好きな作品です。

また、石田波郷(いしだはきょう)には句集『鶴の眼(つるのめ)』に

雪嶺よ女ひらりと船に乗る                 波郷(はきょう)
(せつれいよおんなひらりとふねにのる)


があり「この「女」がどんな女か。雪嶺せまる河(かわ)に、今(いま)一隻(いっせき)の気動船(きどうせん)が煙を上げ纜(ともづな)を解かう(とこう)としてゐ(い)る。雪嶺よの「よ」が面白い。」という自註(じちゅう)を行っております。

雪嶺のひとたび暮れて顕はるる               澄雄(すみお)
(せつれいのひとたびくれてあらわるる)


という森澄雄(もりすみお)の句も私の好きな句の一つです。雪嶺が一旦暮れた後に再び夜空に浮かび顕(あら)われるという光景はいかにも神秘的な感じが致します。



(平成二十三年一月六日 葉月会「道草」より)




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