2016年12月01日

想(自句自解)十二月

表札も故人のままや露の家         中杉髏「(なかすぎ たかよ)
(ひょうさつもこじんのままやつゆのいえ)

露の野に烟のごとく立てる木々
(つゆののにけむりのごとくたてるきぎ)


平成八年の「ホトトギス」一月号で私はホトトギス復帰後はじめて稲畑汀子選の巻頭になりました。前句については前年に阪神・淡路大震災があったことから多くの読者には被災地の光景と映ったようです。この句は神崎郡香呂村矢田部の伯父の家に疎開していた頃の小学生の私を特に可愛がってくれた八千種村鍛冶屋の白井正孝従兄の葬儀の時の事を詠んだものであります。その折は偶々北軽井沢で椰子会の合宿の世話を焼いていたため後日改めて弔問に訪れたのですが、ふと目にした表札が故人の儘であったことに気付き「露の家」という実感を強く致しました。後句は、その帰り道の播但線の溝口駅辺りの情景でありますが、露空の所為なのか目が霞んでいた為なのか野原からいっぱい烟のようなものが立っていました。曲がりくねったその不思議な烟の正体は実は露の野に立っている木々でありました。何か現実と幻想とが入り混じった世界を歩いているような気分でした。

天馬いづこ朱鳥を慕ひ来し夏野
(てんばいずこあすかをしたいきしなつの)

火の朱鳥石の茅舎や蝉時雨
(ひのあすかいしのぼうしゃやせみしぐれ)


平成十年七月十八日から二十日の三連休、私は阿蘇山に登り、その足で直方の野見山朱鳥の旧居を訪ねました。朱鳥は戦後の「ホトトギス」に出現した稀有の天才俳人でありました。「天馬」は彼の第二句集の題名であります。その由来は

炎天を駆ける天馬に鞍を置け        朱鳥(あすか)
(えんてんをかけるてんばにくらをおけ)


という句から来ております。彼は川端茅舎の作風に憧れ努力研鑽の結果、第一句集「曼珠沙華」の序で師の高浜虚子から「曩に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と言われるまでになりました。ところが、第二句集「天馬」では一転して具体性に欠けると厳しい叱正を受けたのです。そこでこの句が虚子選なのかどうかが疑問視され出したため、事実を確かめたくなった私は野見山ひふみ夫人にお願いして原本を見届けにやって来たのでした。夫人が金庫から持ち出された和綴の原本には間違いなく虚子選のチェックが入っておりました。
朱鳥は生涯虚子を師と仰ぎ続けましたが、虚子の「花鳥諷詠」を「生命諷詠」に深化させた彼は俳句表現において師の虚子と火花を散らすような真剣勝負を行ったのでした。私は多賀公園にある野見山朱鳥文学碑を訪ね大きな朴の木の下で瞑目して掲出の句を詠みました。碑の表には代表作の

火を投げし如くに雲や朴の花        朱鳥
(ひをなげしごとくにくもやほうのはな)


が彫られ、裏には「苦悩や悲哀を経て来なければ魂は深くならない」という言葉が刻まれていました。その火のような作風は余人の追随を許さないものがあります。
 
仙入の霧に隠れしあと知らず
(せんにゅうのきりにかくれしあとしらず)

霧となり巌となりてありしのみ
(きりとなりいわおとなりてありしのみ)


これも平成十一年二月号の「ホトトギス」の汀子選の巻頭になった句であります。
前句は吾妻線の長野原草津駅で作ったものですが、渡り鳥の一種である仙入が次々と大霧の中に消え入るイメージを得て句に致しました。後句は生来私の中に巣くっている実存的な宇宙感を「霧」や「巌」という存在物で表現したものです。それらの不思議な実在感を感じていただければ本望です。

倒れ木となりても花を咲かすかな
(たおれぎとなりてもはなをさかすかな) 

平成十一年の春、高野山へ墓参に行った私はケーブルで下山しながらぼんやりと窓外を眺めておりました。そのときふと一本の桜の倒木が目に止りました。それは残る力を振り絞って懸命に花を咲かせようとしている、生あるものすべてに共通する老いの姿に思われました。この句に対し、フェヒナーの「植物の精神生活について」の中の“花の魂”の一節を思い出された評者もありました。


中杉髏「
(「サバービア通信」平成二十八年十二月一日より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 隆世の句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする