2016年11月01日

想(自句自解)十一月

独立の日の萬緑の白樺よ          髏「(たかよ)
(どくりつのひのばんりょくのしらかばよ)


平成二十八年現在、私は妻と二人で群馬県の北軽井沢に住んでいます。
兵庫県の明石市からこちらへ転居して早くも丸三年が経ちました。
昭和六十二年七月四日のアメリカの独立記念日に私達の北軽井沢の別荘は完成しました。
その日の喜びを表したのがこの俳句です。ここ北軽井沢には大正の初め法政大学の関係者によってつくられた大学村があり、芥川龍之介、野上弥生子、岸田国士等がその森を執筆活動の場としたので別に文学村とも称されました。その流れは谷川俊太郎や大江健三郎という方々に受け継がれていますが、丁度出来たばかりのわが家も朝日新聞の「別荘ライフ」に岸田今日子さんや芥川也寸志さんの別荘と共に取材を受けたのでした。そのとき妻が話した「老後はここで」という希望が長生きしたお蔭で今になってようやく叶えられました。

葛の雨浅間はつとに雲隠れ
(くずのあめあさまはつとにくもがくれ)

 
天明三年(一七八三年)の浅間山の大噴火で熔岩流が駆け下ったのは北麓の群馬県嬬恋村の側です。ここから見る浅間山は片岡鶴太郎が描いたような観音菩薩の寝姿に見えます。反対に島崎藤村の「千曲川のスケッチ」や堀辰雄の「美しい村」や高浜虚子の「小諸雑記」に描かれた浅間山は赤茶けた崖の見える南側に当たります。この中山道や信越本線(現しなの鉄道)の通る長野県側を浅間山の表とする通説に対し、大学村に住む詩人の谷川俊太郎氏などは逆に北側こそが浅間の表であると強調されています。
さて、私は高校生の頃教科書の現代俳句で知った石田波郷の

葛咲くや嬬恋村の字いくつ         波郷(はきょう)
(くずさくやつまこいむらのあざいくつ)


という句から想像される風土に憧れを抱き、毎年、会社の休暇を利用して北軽井沢を訪れるようになりました。私にはその頃から見たことも無い世界を言葉を通して透視したり幻視したりすることが出来たようです。
昭和十七年八月、草津の義妹を迎えに行く途中、一村が一郡の大きさをもつという嬬恋村の字々を徒歩で通り抜けた時に作られたというこの句と共に

葛の雨鶴溜駅しぶきけり
(くずのあめつるだまりえきしぶきけり)


という同時作も私の愛唱句となっております。
そういう想いを伏線にして出来上がったのが掲出句であります。浅間山は雲や霧に隠れることが多くなかなかその美しい姿を見せては呉れません。女性に譬えられるこの山は恥ずかしがり屋なのかも知れません。

火山灰拓き林拓きて蝶と棲む
(よなひらきはやしひらきてちょうとすむ)

 
この辺りはその大噴火で降った火山灰の地層であるため水田は少なく畑は黍とか豆とか芋やキャベツや大根のような作物しか育ちません。第二次世界大戦後、満州・蒙古からの引揚者の入植した浅間山の東北麓にいくつかの開拓村が生まれました。入植当時の開拓村は落葉松を切り倒して柱にし、熊笹を刈り取って壁と屋根にした手作りの家でした。北軽井沢の大屋原には群馬満蒙開拓魂之碑が立っていますが、そういう人々の努力が実って今の日本一の高原野菜の大生産地が生まれたのでした。
私の第二句集『嬬恋』の「あとがき」にも記しているようにそういう風土の歴史や人々の心情を理解しなければ真に北軽井沢を理解することは出来ないと思います。
私は北軽井沢に來る度にこの辺りを歩いて句を作りました。

火山灰超えて飛ぶは炎の懸巣かな
(よなこえてとぶはほのおのかけすかな)


森の多い北軽井沢には沢山の小鳥達がやって参ります。特に懸巣が多いのが特色で、火山灰の畑の上を飛び越えて行くのを目にすることが度々ありました。歳時記では懸巣は秋の季題にされておりますが、この句が出来たのは真夏の炎天の丘でありまして、それはまるで火の鳥が飛んでいるように目に映ったのでした。


中杉髏「
(「サバービア通信」平成二十八年十一月一日より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 隆世の句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする