2016年10月01日

想(自句自解)十月

ほととぎす虚子直系の放浪者        髏「
(ほととぎすきょしちょっけいのほうろうしゃ)


 ブラジルから帰国した私を待っていてくれたのは昔の椰子会の仲間達でありました。彼等は既に二年前の七月に「青」を離脱して同人誌「椰子」を創刊致しておりました。そしてそれぞれ「雲母」や「鷹」や「陸」や「沖」という有力結社で活躍しておりました。、私は「青」と「椰子」に拠りながら個人的に魅力を感じていた中村草田男の「萬緑」に投句することに致しました。 
「ホトトギス」を去って十年という月日が経っていましたが、学生時代に虚子から「ホトトギス」の巻頭を与えられた私は虚子最晩年の弟子であるとの誇りと自覚を持ち続け俳壇を遍歴する自分自身を「放浪者」のように考えておりました。どこか私の中で芭蕉や山頭火のような漂泊の精神に共感する「魂の放浪」というものに憧れていたのかもしれません。
「萬緑」の主宰者の中村草田男もまた虚子に九羊会のメンバーとして愛された一人で、「ホトトギス」を離れて現代俳句の牽引者となったその後も正しく「虚子直系の放浪者」でありました。虚子に導かれて「ホトトギス」に縁を持ったことが時鳥の生き様に自らの俳句人生を重ね合わせることになって行ったのでしょうか。

春寒の機械化人間チャップリン
(はるさむのきかいかにんげんちゃっぷりん)


 これは現代の機械文明を風刺した喜劇王チャールズ・チャップリン主演の「モダン・タイムス」という映画を題材にした作品であります。ベルトコンベヤーと大真面目で格闘するその姿は現代人の目から見ると滑稽なものかもしれませんが、人間性を無視する物質優先の社会一般に対する怒りが込められていることに気付かねばなりません。この句はそういう感性を「春寒」という季題に託したものであります。
チャップリンが大好きであった中村草田男は、原句の

春寒の機械人間チャップリン
(はるさむのきかいにんげんちゃっぷりん)


を添削して「機械化」と「化」の一字を付け加えました。これでチャップリンのおどけた仕草が大きくクローズ・アップされ、人に訴え掛ける力がより強くなったように感じられます。

春光の石の炎となりにけり
(しゅんこうのいしのほのおとなりにけり)


 私の第一句集『石炎』の題名はこの「石の炎」から採られたものであります。
昭和五十六年、四十六歳の三月二十二日彼岸の中日のこと、椰子会の吟行先は加古川上流の闘龍灘でありました。鮎の漁場で有名なそこには巨岩がいくつもいくつも並んでおり、私は愉快な気分に浸りながらその中の最も大きな岩の一つに寝そべりました。それは何とも言えない良い気分でありましてあたかも自分が春の暖かい光に包まれたまま天上へ連れ去られて行くような気がしておりました。そういう「春の光」を「石の炎」と表現したものであります。
この第一句集『石炎』は昭和六十年に卯辰山文庫から出版され、角川書店の昭和六十二年一月号の「俳句」の「新企画 俳句の時代を読む(第一回)―50代作家をめぐっての現在」という座談会に採り上げられ、俳壇の注目を浴びました。平畑静塔氏からは「青も止められし由、私と二人でやりたいような気もしますが少々こちらは老けました。一寸私小説的境涯の句があるのが気になりますが何れそれは超えてゆかれるものと信じます。」という有難い葉書を頂戴しました。

穭穂やわれに明るき妻子あり
(ひつじほやわれにあかるきさいしあり)


 昭和五十九年十一月二十五日。椰子会で箕谷の奥の無動寺に吟行にゆきました。この辺りは酒米の山田錦の取れるところですが、そのときはもう刈り入れが終わっていて穭田になっておりました。丁度、その頃の私は日紡の子会社の日興織物の役員をしていたのですが、親会社に依る繊維事業合理化のための合併人事で新しい就職先を探さねばならなくなっておりました。妻は私の両親の面倒を見ながら子供達を私立の大學へ通わせるため自宅の二階に英語塾を開いて奮闘してくれました。不甲斐ない私に対し一言の不満も漏らさず明るく振る舞ってくれる妻や子供達に対して万謝しながらじっと穭穂を見つめて幸せな想いに浸っていたことを思い出します。

中杉髏「
(「サバービア通信」平成二十八年十月一日より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 隆世の句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする