2016年08月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  四十一. 露(つゆ)と 野分(のわき)

平成二十五年九月の兼題は「露(つゆ)」と「野分(のわき)」であります。

金剛の露ひとつぶや石の上         茅舎(ぼうしゃ)
(こんごうのつゆひとつぶやいしのうえ)


「露」と言えばすぐ頭に浮かぶのがこの句です。ご承知の通り、『川端茅舎句集(かわばたぼうしゃくしゅう)』は四季別に編まれ「秋」から始ります。しかもその「秋」の冒頭を飾るのが露の連作二十六句です。茅舎は「ひとつぶの露」を凝視し、そこに自分の宇宙を見出しました。茅舎は比喩の名手でありますが、この「金剛」という隠喩は一粒の露を光り輝く硬質でしかも堅牢な存在に完璧に描き切りました。ズーム・アップされた視点は誇張のようでいて誇張ではありません。写生の目を通したデフォルメによって真実が捉えられているのであります。

尾をひいて芋の露飛ぶ虚空かな
(おをひいていものつゆとぶこくうかな)

露の玉をどりて露を飛び越えぬ
(つゆのたまおどりてつゆをとびこえぬ)

白露に鏡のごとき御空かな
(しらつゆにかがみのごときみそらかな)


茅舎に私淑した朱鳥(あすか)は努力の末、茅舎と比肩される作家にまで成長致しました。病身故に茅舎同様、画家を断念せざるを得ませんでしたが、「比喩」表現に優れた才能を見せ、「石の茅舎」に対し「火の朱鳥」と並び称されるようになりました。

大空は野分の暗さ汐木採り         朱鳥(あすか)
(おおぞらわのわきのくらさしおぎとり)

戦へる野分の樹々もまたわれも
(たたかえるのわきのきぎもまたわれも)


彼の手に掛かれば「野分」という古めかしい季題も泰西名画(たいせいめいが)や演劇のような近代感覚に満ちた俳句になるから不思議であります。彼は終生虚子を唯一の師として「花鳥諷詠(かちょうふうえい)」と「客観写生(きゃっかんしゃせい)」に徹し、「季題を通して永遠の生命に触れようとする詩精神」である「生命諷詠(せいめいふうえい)」を唱えました。
さて、浅間山の南麓にある浅間追分の浅間神社に建てられている芭蕉句碑は芭蕉の百年忌にあたる寛政五年(一七九三年)八月佐久の春秋庵連によって建てられたものであります。浅間焼石に覆われた追分に野分の吹く頃の風情がしのばれる一句です。

ふきとばす石も浅間の野分かな       芭蕉(ばしょう)
(ふきとばすいしもあさまののわきかな)


ところが、『更科紀行(さらしなきこう)』の原句は

ふきとばす石は浅間の野分哉
(ふきとばすいしわあさまののわきかな)


となっており、「も」と「は」の違いが歴然としております。どうしてこのような誤りが生じたのかはわかりませんが、いろいろ調べてみるとこの「は」に落着くまで「秋風や石吹き颪す浅間哉(あきかぜやいしふきおろすあさまかな)」「吹き落す浅間の石の野分哉(ふきおとすあさまのいしののわきかな)」「吹き落す石を浅間の野分哉(ふきおとすいしをあさまののわきかな)」と幾度も推敲が繰り返されたということであります。何れにせよ俳句は「一字」が生命です。作句においても清記においても心致さねばなりません。


(平成二十五年九月八日 葉月会「道草」より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 九月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする