2016年07月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  四十. 踊(おどり)と 南瓜(かぼちゃ)

平成二十五年八月の兼題は「踊(おどり)」と「南瓜(かぼちゃ)」であります。

踊うた我世の事ぞうたはるる        虚子(きょし)
(おどりうたわがよのことぞうたわるる)


「踊」が八月の季題であるのは先祖の霊を招き慰める盆踊に由来しているからであります。生者死者共に楽しむ盆踊は本来供養が目的でありますが、いつしか都会から田舎へ里帰りする人々の交遊娯楽の場として次第に地方色豊かな華美なものとなって参りました。
新歳時記の例句に掲げられた虚子のこの句からは「踊うた」一つにもいつもながらの超越した次元から現世を眺めやる虚子独特の花鳥諷詠の世界というものが見えて参ります。

づかづかと来て踊り子にさゝやける     素十(すじゅう)
(ずかずかときておどりこにささやける)


この素十の句は昭和十一年の作で第一句集『初鴉(はつがらす)』と第二句集『雪片(せっぺん)』とに収められています。踊の最中づかづかと入り込んで来た男が踊り子の一人に突然何事か耳打ちしたという出来事を写生したものであります。「づかづかと」という表現に違和感と好奇心の入り混じった感情が伺えます。私はこの句からフランス印象派の画家ドガの描いたバレリーナ達の練習風景を思い浮かべます。その方がずっと小説的で面白いと思います。

はてしなき機械の踊まのあたり       髏「(たかよ)
(はてしなききかいのおどりまのあたり)


これは、日紡の練習生として豊橋工場に赴任し、初めて紡織工場の現場に立ったときの実感であります。機械はどれも一定の動きしか繰り返しませんが、私には非人間的な筈の機械が何か意志や感情を持っているように思えてなりませんでした。その思いは更にそこで働く人間がやがて機械に支配される労働者となる日が来るのではないかという漠然とした不安となりました。

稲妻や南瓜は草にひろがれる        爽波(そうは)
(いなずまやかぼちゃわくさにひろがれる)


空に閃く稲妻と畑から草原へと蔓を延ばす南瓜には何か繋がりあうものがあるように感じられます。それは稲妻も南瓜も誰憚ることなく自由で伸びやかな生を楽しんでいるということであります。「稲妻」と「南瓜」を一つの実景として結び付けているものは雑草です。それを単に「草に」と表現することに依ってリアルな実景として浮かび上がらせました。そういう着目と感覚の鋭さはやはり爽波ならではという感じが致します。

吾子等喜戯南瓜の花は民の花        草田男(くさたお)
(あこらきぎかぼちゃのはなわたみのはな)


「南瓜」は秋の季題ですが、「南瓜の花」は夏の季題であります。南瓜の花は庶民に愛される大きな星のような形をした黄色い花で「民の花」と呼ばれるのに相応しい作物であります。畑の傍で楽しく無邪気に遊び戯れている子供達の姿は平和そのものです。第四句集『来し方行方(こしかたゆくえ)』所収の昭和十九年という戦争中の作品であることを知れば「社会と人間」に関心の深い草田男の善意というものが感じられます。


(平成二十五年八月十一日 葉月会「道草」より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 八月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする