2016年05月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  三十八. 萬緑(ばんりょく)と 蟹(かに)

平成二十五年六月の兼題は「萬緑(ばんりょく)」と「蟹(かに)」であります。

萬緑の中や吾子の歯生え初むる       草田男(くさたお)
(ばんりょくのなかやあこのははえそむる)


「萬緑」という新季題は昭和十四年に作られた中村草田男のこの句によって定着致しました。「萬緑の中や」という力強い詠い出しにより真夏の緑一色の熾んな生命力を感じますし、「吾子の歯生え初むる」からは生命力への驚異と讃美と祝福の声が聞こえて来るようです。「萬緑」に対比されているのは、王安石(おうあんせき)の「萬緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん )」の紅ではなく、嬰児の小さな小さな白い歯です。第三句集および主宰誌の題名ともなった「萬緑」は草田男の詩の世界を象徴する言葉となりました。

萬緑を顧るべし山毛欅峠          波郷(はきょう)
(ばんりょくをかえりみるべしぶなとうげ)


山毛欅峠は埼玉県の西吾野(にしあがの)から北へ入った武蔵と秩父とをつなぐ峠の一つです。「顧るべし」という表現と「山毛欅峠」という地名とが上手く連動し合って迫力ある山毛欅の萬緑が描き出されております。第二句集『風切(かざきり)』所収のこの句は昭和十八年五月、石田波郷が日本文学報国会の職員達と奥武蔵にハイキングした時に作られました。純粋に萬緑の美しさを讃美する若々しい感性に溢れた句であります。

萬緑やわが掌に釘の痕もなし        誓子(せいし)
(ばんりょくやわがてにくぎのあともなし)


昭和二十二年作、第八句集『青女(せいじょ)』所収。聖書のヨハネ伝二十章にはイエスが使徒トマスの疑念を晴らすため復活した自らの掌に残る「釘の痕」を示すという件が記されております。リアリストの山口誓子にもトマスに通じる一面があり、「萬緑」の生命力に対し病的に内面化し自己凝視と沈潜を進めて行くいわば神経の危機が見られます。宇宙の根源の把握を目指した誓子に「釘」の句が多いのもまた事実であります。

われ立つと断崖の蟹海へくだる       朱鳥(あすか)
(われたつとだんがいのかにうみへくだる)


「ホトトギス」の昭和二十九年六月号の副巻頭句です。「われ立つと」という詠出には「菜殻火(ながらび)」の主宰者として、俳句の伝統を担う者としての自負心と覇気が認められます。その「われ」に恐れを抱いた蟹どもがひそかに断崖を海へ下り始めたという光景であります。このように朱鳥は自らを劇中主人公に擬し、俳句と格闘し、俳句に生涯を捧げました。

妻のみ恋し紅き蟹などを歎かめや      草田男
(つまのみこいしあかきかになどをなげかめや)


第二句集『火の島(ひのしま)』所収。十回に及ぶ見合いの末、最愛の妻直子を得た草田男は幸福への意志、生命への意欲を高め、理想の家族づくりに取り掛かります。エロスの地上に於ける実現。その家族愛の一途な人生態度はつぎつぎと詩化され普遍化されて行きました。そういう人生肯定の立場からは歌集『一握の砂(いちあくのすな)』で蟹と戯れる石川啄木などは理解し難い存在であったのかも知れません。



(平成二十五年六月九日 葉月会「道草」より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 六月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする