2014年10月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  十九. 落葉(おちば)と 切干(きりぼし)

平成二十三年十一月の兼題は「落葉(おちば)」と「切干(きりぼし)」であります。
私は日本画の菱田春草(ひしだしゅんそう)の「落葉」という絵がとても好きでいつもこんな雰囲気の俳句を作ってみたいと念願致しております。幹(みき)と落葉だけが描かれたこの絵からは不思議と静寂(せいじゃく)で無限に深まる空間が感じられます。地面が描かれていないのに立体感や遠近感があるのは「落葉」の存在によるものです。ここには明らかに空気が描かれております。
このような静謐(せいひつ)な世界は、晩年病気療養中の長谷川素逝(はせがわそせい)の句境(くきょう)からも見出せます。

たまさかの落葉の音のあるばかり          素逝(そせい)
(たまさかのおちばのおとのあるばかり)

はなれたる朴の落葉のくるあひだ
(はなれたるほおのおちばのくるあいだ)


素逝は句集『砲車(ほうしゃ)』で名をなした作家ですが、『定本素逝句集(ていほんそせいくしゅう)』では一切(いっさい)の戦争俳句を捨て去りました。これはなかなか真似の出来ることではありません。
「落葉」と言えば俳句近代化の先駆(さきが)けとなった水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の

むさしのの空真青なる落葉かな           秋桜子(しゅうおうし)
(むさしののそらまさおなるおちばかな)


という句やスローモーション映画を見るような松本たかしの写生句が印象に残ります。

朴の葉の大きくぞなり落ち来る           たかし
(ほおのはのおおきくぞなりおちきたる)


次は戦後俳句の第一人者と言われた飯田龍太(いいだりゅうた)が家の裏山を歩く父蛇笏(だこつ)を詠んだ作品です。

手が見えて父が落葉の山歩く            龍太(りゅうた)
(てがみえてちちがおちばのやまあるく)


「手が見えて」というのはバランスを取ろうとする老人特有の動きを敏感に捉えたものです。ふと見掛けた老父(ろうふ)の姿を見守り気遣う龍太の心が伝わって参ります。

「切干(きりぼし)」は割干(わりぼし)とか千切(せんぎり)のように大根を薄く切って天日(てんぴ)に干したものですが、煮物や漬物にされるのが普通のようです。終戦後、欠食児童(けっしょくじどう)であった私などには生々しい「切干」の甘い歯ごたえの味が忘れられません。

切干やいのちの限り妻の恩             草城(そうじょう)
(きりぼしやいのちのかぎりつまのおん)


日野草城(ひのそうじょう)は華やかであった若年の頃に比べ晩年は肺結核で病臥(びょうが)の身となり、淋しい日々を送りました。この句は看病に尽くす妻晏子(やすこ)への感謝の念を詠ったもので第七句集『人生の午後』に収められております。また、緑内障(りょくないしょう)で右目を失明した草城は

右眼には見えざる妻を左眼にて         
(うがんにはみえざるつまをさがんにて)


という無季(むき)の句も作っております。彼は新興俳句(しんこうはいく)の旗手(きしゅ)として連作俳句や無季俳句を主張し虚子(きょし)から「ホトトギス」を破門(はもん)されましたが、後年、主治医五十嵐播水(いがらしばんすい)の取成しもあって虚子に許され「ホトトギス」に復帰いたしました。

このように季題には境涯(きょうがい)の思いを凝縮結晶(ぎょうしゅくけっしょう)させることによって人々の共感を呼び覚まし感動の連鎖を呼び起こす力があります。


(平成二十三年十一月五日 葉月会「道草」より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 十一月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする