2014年09月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  十八. 林檎(りんご)と 秋深し(あきふかし)

平成二十三年十月の兼題は「林檎(りんご)」と「秋深し(あきふかし)」に致しました。

我が恋は林檎の如く美しき             富女(とみじょ)
(わがこいはりんごのごとくうつくしき)


これは無名(むめい)の新人の句であります。虚子編新歳時記(きょしへんしんさいじき)の「林檎(りんご)」の例句(れいく)の一つに掲(かか)げられております。「まだあげ初(そ)めし前髪(まえがみ)の林檎(りんご)のもとに見えしとき・・・」というあの島崎藤村(しまざきとうそん)の『初恋(はつこい)』の詩(し)に詠(うた)われているような可憐な少女の姿が想像され、「林檎の如く」という率直な表現から乙女(おとめ)の一途で初々しい恋心が感じ取れます。

林檎食ふ間にも城去り城来る            いはほ(いわお)
(りんごくうまにもしろさりしろきたる)


京大付属病院長の松尾いはほ(まつおいわお)先生がドイツに留学されていた時に作られた句で「ライン河を下(くだ)る」という前書(まえがき)があります。「林檎」の新鮮な食感と次々と現れ出る中世の幾多(いくた)の城からダイナミックなライン下りの様子がリアルに伝わって参ります。
「林檎」はまた旧約聖書(きゅうやくせいしょ)の「創世記(そうせいき)」に出てくるエデンの園(その)の禁断(きんだん)の木の実(このみ)“善悪(ぜんあく)の知識の実”とされております。泰西名画(たいせいめいが)には「智の蛇(ちのへび)」に唆(そそのか)されてこの禁断の木の実を食べた裸のイブとアダムが主なる神から楽園を追放(ついほう)される有様(ありさま)が数多く描かれております。

空は太初の青さ妻より林檎うく           草田男(くさたお)
(そらはたいしょのあおさつまよりりんごうく)


敗戦の翌年の作で「居所(きょしょ)を失うところとなり、勤先(つとめさき)の学校の寮の一室に家族と共に生活す」という前書きのある句。真っ青な空に太初(たいしょ)を想い、真っ赤な林檎に人間愛の原型を感じた、その意識の中には旧約聖書の「創世記」の連想があったと思います。「古代(こだい)の族長(ぞくちょう)」や「保護者(ほごしゃ)ヨゼフ」に倣(なら)う、いかにも草田男らしい作品であると言えましょう。

「秋深し」という季題は秋の季題の中でも最も深く心に響く季題のように思われます。

秋深き隣は何をする人ぞ              芭蕉(ばしょう)
(あきふかきとなりはなにをするひとぞ)


『笈日記(おいにっき)』の中の一句。秋の夜長(よなが)、人は静かに読書したり、いろいろな思索(しさく)に耽(ふけ)るものであります。そうした中、ふと隣人(りんじん)の生活が気懸(きがか)りになったのでありましょうか。他者の生業(なりわい)を慮(おもんばか)ることにより一層人間同士の孤独感(こどくかん)が身に沁(し)み、親愛(しんあい)の情が湧(わ)いて来たのでありましょう。「秋深き」という季題、「ぞ」という係助詞(かかりじょし)が特に余韻余情(よいんよじょう)を深くしております。

深秋といふことのあり人も亦            虚子(きょし)
(しんしゅうということのありひともまた)


『虚子百句(きょしひゃっく)』によれば、昭和二十年十月二十七日、虚子七十一歳の作とされております。終戦直後の秋、さまざまな事情や憂(うれ)いのある中、感情を表(おもて)に表(あらわ)さず泰然(たいぜん)と俳句を作る人に感動と敬意(けいい)を覚えたという句意(くい)であります。又、すでにそういう心境(しんきょう)にある作者自身の自信に満ちた姿とも受け取れます。成熟(せいじゅく)の秋には枯淡(こたん)の冬が近づいております。そういう移(うつ)ろい易(やす)く深まり行(ゆ)く自然の姿を人生に譬(たと)えたものと思います。深秋の如き人物とは言い知れぬ大きな存在に思われます。


(平成二十三年十月九日 葉月会「道草」より)


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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 十月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする