妹が居の宰相山も夏祭 誓子(せいし)
(いもがいのさいしょうやまもなつまつり)
山口誓子(やまぐちせいし)は昭和三年十月、浅井啼魚(あさいていぎょ)の長女波津女(はつじょ)と結婚し、大阪の宰相山に新居を構えました。この句は昭和三年の作で
七月の国灼くる見ゆ妹が居は 誓子(せいし)
(しちがつのくにやくるみゆいもがいは)
と共に第一句集『凍港(とうこう)』に収められており、結婚を間近に控えた婚約時代の作品であります。「妹(いも)」のような万葉語(まんようご)の使用は短歌のアララギ派から刺激を受けたものかも知れません。「宰相山(さいしょうやま)」という地名、「夏祭」という季題が実に的確で見事な相聞俳句(そうもんはいく)と言えましょう。
家を出て手を引かれたる祭かな 草田男(くさたお)
(いえをでててをひかれたるまつりかな)
父が外交官であった中村草田男は祖母に溺愛(できあい)されて育ちました。これは幼時(ようじ)を回想したもので手を引いたのはきっとその祖母であったろうと思います。笛太鼓(ふえたいこ)の音(おと)やアセチレン・ガスの匂う人出の中、淋しい孫を賑やかな祭の場へ誘い出そうとする祖母の心情が伺えます。祖母の急逝(きゅうせい)は二十二歳の草田男に「ラザロ体験」ともいうべき衝撃を与えました。
誓子と草田男は共に俳句の近代化で大きな功績を挙げましたが、両者の個性は極端に対照的です。唯一の共通点は小動物に関心が強かったということですが誓子の方は即物的(そくぶつてき)、感覚的で嗜虐的(しぎゃくてき)でさえあるのに対して草田男の方は寓意的(ぐういてき)、象徴的(しょうちょうてき)であり、祝祭的(しゅくさいてき)でさえあります。その生き様も誓子は合理的、分析的で草田男は非合理的、総合的であります。
朴散華即ちしれぬ行方かな 茅舎(ぼうしゃ)
(ほおさんげすなわちしれぬゆくえかな)
川端茅舎は短命ではありましたが俳句の絶頂期に死の時を同じくした数少ない俳人の一人です。辞世(じせい)の句が最高の作品であるということは俳人冥利(はいじんみょうり)に尽きると思います。「朴散華(ほおさんげ)」という言葉は「涅槃(ねはん)」を意味する象徴的な深い内容のものであり、人が安易に模倣(もほう)すべきものではありません。この句は「ホトトギス」昭和十六年八月号の巻頭句となりました。
火を投げし如くに雲や朴の花 朱鳥(あすか)
(ひをなげしごとくにくもやほおのはな)
茅舎に私淑(ししゅく)した朱鳥も朴の花を愛した作家でありました。「如(ごとく)」は二人に共通する表現法であります。この句は昭和二十一年「ホトトギス」六百号の巻頭句で、彼の生まれた直方市(のおがたし)多賀公園(たがこうえん)の野見山朱鳥(のみやまあすか)文学碑(ぶんがくひ)に刻まれております。平成十年七月、阿蘇を吟遊(ぎんゆう)し、朱鳥旧居(きゅうきょ)で野見山ひふみ夫人にお会いした翌日、私は多賀公園の大きな朴の木の下にあるこの文学碑に凭(もた)れて目を瞑(つむ)ったままいつまでも蝉時雨(せみしぐれ)を浴びながら句想(くそう)に耽(ふけ)っておりました。
生れ来る子よ汝がために朴を植う 朱鳥(あすか)
(うまれくるこよながためにほおをうう)
は昭和二十八年七月号の「ホトトギス」巻頭句でありますが、その御長男のお名前は直樹と申されます。
(平成二十三年五月八日 葉月会「道草」より)
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