2014年01月15日

〜道草〜 今月の兼題と例句  十. 梅(うめ)と 山焼く(やまやく)

二月の兼題(けんだい)は「梅(うめ)」と「山焼く(やまやく)」に致しました。
早春、百花(ひゃっか)に魁(さきが)けて咲く「梅」はその気品や清香(せいこう)から清廉高潔(せいれんこうけつ)な人格が連想され古来和漢(こらいわかん)の詩人(しじん)に愛賞(あいしょう)されて参りました。
それだけに一月頃より早咲きの梅を探(たず)ねて山野に出掛ける探梅(たんばい)は春先の格好(かっこう)の行事として楽しまれているのです。

探梅や枝のさきなる梅の花                素十(すじゅう)
(たんばいやえだのさきなるうめのはな)


「大まかに梅の花と叙(じょ)して却(かえ)って枝の先に一輪の梅を見出した心持(こころもち)が瞭(は)っきりと出て居る。」と虚子(きょし)が評していますように枝先の梅を見付けて喜ぶ人々の表情と共に枝先の梅をズームアップして逆に人々を枝の間から見下ろすという構図が想像されます。視点を梅の側に置くことは花鳥(かちょう)の側から作者を見るという斬新(ざんしん)な客観写生(きゃっかんしゃせい)の手法(しゅほう)であると申せます。

紅梅の紅の通へる幹ならん                虚子(きょし)
(こうばいのこうのかよえるみきならん)


紅梅が紅梅であるのは紅梅を紅梅たらしめる「紅(こう)のいのち」がその幹を通っているからだという句意であります。稲畑汀子(いなはたていこ)の『虚子百句(きょしひゃっく)』ではそれを虚子(きょし)のアニミズム的な眼によるものと云(い)い、作者の虚子が紅梅に語りかけているようだとも云っております。

白梅のあと紅梅の深空あり                龍太(りゅうた)
(はくばいのあとこうばいのみそらあり)


白梅がひとしきり咲き誇ったあと紅梅の盛りがやって来て空の色も一層(いっそう)深味(ふかみ)を増すようになったという趣意(しゅい)であります。甲州では伊豆あたりと違いこのような咲き方になるようです。龍太には「青空(あおぞら)」「蒼空(あおぞら)」という表現が多いのですがこの「深空(みそら)」は余韻(よいん)の深い素晴らしい造語(ぞうご)です。茅舎(ぼうしゃ)もこれと良く似た「御空(みそら)」「虚空(こくう)」という表現があります。

「山焼く」という季題には「山火」という傍題(ぼうだい)があり、「野焼く」にも「野火」という傍題があります。野を焼くのは害虫駆除(がいちゅうくじょ)のため、山を焼くのは下草(したくさ)を除(のぞ)くためと云われております。どうやら「山火」と「山火事」とは異(こと)なるようであります。

山焼く火檜原に来ればまのあたり             秋桜子(しゅうおうし)
(やまやくひひばらにくればまのあたり)


雑木林を抜けて檜原(ひばら)の疎林(そりん)に出たら山を焼く火がまのあたりに見えたという迫真性(はくしんせい)のある印象鮮明(いんしょうせんめい)な秋桜子(しゅうおうし)らしい作品です。大正十五年二月の「ホトトギス」の雑詠句評会(ざつえいくひょうかい)では誓子(せいし)の問(とい)に対し、秋桜子は自(みずか)ら曽って(かつて)飛騨山中(ひださんちゅう)で見かけた経験を基(もと)に創造したものであると告白しております。虚子はそれが譬(たと)え作者の主観に依(よ)って創造された世界であってもリアリティのある限り、現実の世界のものとして鑑賞(かんしょう)し得ると発言致しております。

柔かき草柔かき炎上げ                 素十(すじゅう)
(やわらかきくさやわらかきほのおあげ)


句集『雪片(せっぺん)』に収録された野焼の句であります。ここに描かれているのは「草」と「炎」だけでありますが、柔かい草が柔かい炎をちろちろと上げて燃えているという情景(じょうけい)がまざまざと目に見えるように客観写生されております。



(平成二十三年二月七日 葉月会「道草」より)




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posted by 俳句の会 世話人 中杉 髏「 at 00:00| 二月の季題について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする