「秋晴」と云(い)いますと、すぐ私の頭に浮かぶのは
秋晴や橋よりつゞく山の道 草田男(くさたお)
(あきばれやはしよりつづくやまのみち)
という句であります。加藤楸邨(かとうしゅうそん)や石田波郷(いしだはきょう)と共に人間探求派(にんげんたんきゅうは)と呼ばれ、難解・腸詰俳句(ちょうづめはいく)と批判(ひはん)された中村草田男(なかむらくさたお)も、初心(しょしん)の頃はこんな平易(へいい)で素直な句を作っておりました。
この句は第一句集『長子(ちょうし)』の秋の部に出て参ります。「橋」が村里(むらざと)との距(へだ)たりを、「つゞく」が山路(やまみち)を高みへ辿(たど)る作者の立ち位置の変化を表しており、読者にさまざまに連想させる余情(よじょう)の深い句であります。虚子門(きょしもん)に入り、東大俳句会で法医学教室の高野素十(たかのすじゅう)と吟行(ぎんこう)を重ね、写生の基礎を学んだ成果と言うべきでありましょう。
秋晴や水平線に神の指 素十(すじゅう)
(あきばれやすいへいせんにかみのゆび)
高野素十は昭和三十八、九年とペルーや佐藤念腹(さとうねんぷく)のいるブラジルへ何回か旅しておりますが、この句は昭和三十九年五月三日、リオデジャネイロのグァナバラ湾のTAKUETA島(タクエタとう)へ船で渡った際に作られたものであります。「神の指は山の名、一本の指を空に向けたる形なり。」という自註(じちゅう)がありますが、真青な空と海の間の水平線上に一本の「神の指」が突き出している光景は何か神秘的な深いものを象徴的に言い表しているような感じがいたします。昭和四十年から五年程、ブラジルで海外勤務の体験のある私には、頂上にキリスト像のあるポン・デ・アスーカのような山が想像されます。
もう一つ心に残る「秋晴」の句は野見山朱鳥(のみやまあすか)の
雲海の上の大秋晴に出づ 朱鳥(あすか)
(うんかいのうえのおおあきばれにいず)
という句です。これは、昭和三十八年九月、十七日間に亘(わた)った旅で、四誌連合(よんしれんごう)の福田蓼汀(ふくだりょうてい)、本郷昭雄(ほんごうあきお)らと乗鞍岳(のりくらだけ)に登った時の作品です。一泊した朝、山頂で見た絶景をこのように表現したのでしょう。興奮し躍動(やくどう)する作者の魂のよろこびが目に見えるようであります。
爛々と昼の星見え菌生え 虚子(きょし)
(らんらんとひるのほしみえきのこはえ)
昭和二十二年十月十四日、虚子七十二歳の時の作で「十月十四日、長野俳人別れの為に大挙(たいきょ)し来る。小諸山廬(こもろさんろ)」の詞書(ことばがき)があり、稲畑汀子(いなはたていこ)著(ちょ)『虚子百句(きょしひゃっく)』では、「この句はもちろん虚子自身が昼の星や菌が生えているところを見たのではない。つまり嘱目(しょくもく)の写生句(しゃせいく)ではない。また一俳人からの伝聞を句にしたものでもない。そんなことではこの句に秘められた神秘な力が解けない。虚子は一俳人の話に感興(かんきょう)を動かされて、いや感興などという生易(なまやさ)しいものではなく、インスピレーションを得(え)て一気に頭の中で壮大(そうだい)な宇宙を作り上げたのではないだろうか。」と云(い)い、「この句は信濃(しなの)の国に対する虚子の万感(ばんかん)を込めた別れの歌であり、最高の信濃の国の誉(ほ)め歌なのである。」という見事な鑑賞(かんしょう)がなされております。この評言(ひょうげん)に付け加えるものは何もあません。
(平成二十二年十月十一日 葉月会「道草」より)

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